張俊河
[Wikipedia|▼Menu]

張俊河

各種表記
ハングル:???
漢字:張俊河
発音:チャン・ジュナ
ローマ字:Jang Joon-ha
テンプレートを表示

張 俊河(チャン・ジュナ、???、1918年[1]8月27日または1915年[2] - 1975年8月17日)は、大韓民国政治家、官僚、ジャーナリスト独立運動家社会運動家実業家。雑誌『思想界(朝鮮語版)』を創刊し、朴正煕政権下での言論面での抵抗に寄与した。日本名は張安俊河[3]
人物張俊河の母校東洋大学のキャンパス

日本統治時代の朝鮮平安北道朔州郡に牧師の長男として生まれる[1]。父親が独立運動に関わっていたことから各地を転々とし、中学卒業後に日本へ留学。東洋大学予科を経て、長老派日本神学校を卒業する。1944年1月に学徒出陣によって日本軍に入隊、創氏改名では「張安俊河」と名乗る[4]中国戦線に参加したが、同年7月に江蘇省徐州の部隊から脱走[5]安徽省阜陽で別の部隊から脱走した学徒兵の金俊Y(朝鮮語版)と合流した後、中国中央軍官学校臨泉分校の朝鮮光復軍幹部訓練班に入隊し、国民政府軍へ入隊して準士官に任じられ、1945年1月31日には重慶に赴いて、大韓民国臨時政府光復軍に加わり金九の秘書となった。同年2月以降、米軍の戦略情報局(OSS)が朝鮮人隊員に情報・通信訓練を実施し、諜報員として朝鮮本土の重要拠点に侵入させるイーグル・プロジェクト(Eagle Project)の一員として抜擢され、5月1日には京城地域投入組に配置され、情報と組織の責任を負い、同年8月4日にすべての訓練を終えた[6]。この当時の仮名は「キム・シンチョル」[7]であった。しかし出撃に備えていた8月10日に突如、日本のポツダム宣言受諾の報に触れることとなり、光復軍も作戦変更を余儀なくされた。8月11日に池青天を指揮官とする国内挺進軍に従軍した。8月18日に米軍輸送機C-47で西安飛行場を離陸し、汝矣島滑走路に着陸、降伏した日本軍に一定の指示を与えた後、8月20日に帰還した[8][9]

第二次大戦終結後の12月に帰国。この直前に西安で朴正煕と初めて邂逅し、日本軍の規律を光復軍に押し付けようとした朴と衝突している(張の秘書だった李轍雨の証言)。一時は金九と李承晩の提携に動くも成功せず、大韓民国政府樹立後の1947年李範?が設立した朝鮮民族青年団の教務処長に就任。だが間もなく職を辞し、1950年3月教育部国民精神啓発担当官となり、1952年には教育部傘下の思想研究院に移り企画課長。その後は書務課長・事務局長を務め、朝鮮戦争後の1953年4月に思想研究院を辞し、雑誌『思想界』を創刊、ジャーナリストとしての活動を始めた。

李承晩政権が独裁的な色彩を濃くしていくと『思想界』も政権批判の色を濃くし、1958年には掲載記事をめぐって一時拘束を受けた。1960年四月革命李承晩政権が倒れると、張勉首相によって国土建設団企画部長ついで国土建設団長となる。その傍ら、ユネスコ韓国委員会の中央執行委員にも選出され、ユネスコ広報分科委員長も務めている。

5・16軍事クーデターでは『思想界』で「ピークに達した国政の混乱、慢性化した腐敗、麻痺状態に陥った社会的規律など、未曾有の危機から民族的活路を打開するための最後の手段」と一旦は支持する声明を掲載したものの、その後の軍政永続化・朴正煕政権の独裁化から批判に転じる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef