この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "張作霖"
張 作霖
Zhang Zuolin
中華民国
安国軍政府大元帥
任期1923年10月10日 – 1924年10月30日
出生1875年3月19日
(清同治元年10月21日)
清 盛京将軍管轄区奉天府海城県
(現:遼寧省鞍山市海城市)
死去1928年(民国17年)6月4日(53歳没)
中華民国 奉天省奉天市
(現:遼寧省瀋陽市)
張作霖
職業:軍人・政治家
各種表記
繁体字:張作霖
簡体字:?作霖
?音:Zh?ng Zuolin
ラテン字:Chang Tso-lin
注音二式:Jh?ng Tzuolin
和名表記:ちょう さくりん
発音転記:チャン ツオリン
テンプレートを表示
張 作霖(ちょう さくりん、チャン・ツオリン、Zhang Zuolin、1875年3月19日〈清光緒元年2月12日〉- 1928年〈民国17年〉6月4日)は、中華民国初期の政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥。
東三省の統治者であり張学良・張学銘・張学思の父。字は雨亭。 1875年(光緒元年)、遼東半島の付け根に位置する海城県で生まれる。生家はあまり豊かではない上に、1889年に実父・張有財と死別。獣医の継父から乗馬を習ったものの気が合わず、家を飛び出したともいわれている。その後吉林省に渡り、馬賊に身を投じた。1895年、営口市高坎鎮一帯で生活。当時の東三省は警察力が弱く、非合法組織が数多く存在した。張はその中でたちまち頭目となり、朝鮮人参や、アヘンの密売で利益を得ていたと考えられる。彼の仲間には後に満洲国の国務総理を務めた張景恵などがいた。 1904年に日露戦争が勃発し、東三省は戦場となった。張はロシア側のスパイとして活動し、日本軍に捕縛されたが、張に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。この時、児玉の指示を受けて張の助命を伝令したのが、後に首相として張と大きく関わることとなる田中義一少佐である。その後は日本側のスパイとしてロシアの駐屯地に浸透し、多くの情報を伝えた。 日露戦争後の1905年、東三省の統治体制を引き締めるために八旗兵の出身である趙爾巽が同地に派遣された。彼は行政手腕をもって知られ、財政収入の確保に奔走するとともに地域の治安向上にも努めた。馬賊に対しては、帰順すれば軍隊に任用する旨を頭目たちに伝えた。張はこうした状況の変化にいち早く対応し、清朝に帰順して2千程度の規模を持つ軍の部隊長となった。この帰順は形式的なものであり、馬賊として広く知られていた張の下にはさらに多くの馬賊が集まり、隠然たる勢力を形成していった。 この時期の東三省は、中国各地からの漢族の大量移住と日本・ロシアによる介入のため急速に開発が進んでいた。清朝中央にあって北洋軍を率いる直隷総督兼北洋大臣の袁世凱はこれに目を付け、自らの勢力下に置くことを企てた。袁は事実上の清朝の支配者である西太后に働きかけ、1907年には腹心の徐世昌を東三省総督にすることに成功、更に配下である北洋軍の一部を東三省に送り込んだ。 張は内モンゴルとの境界に近い鄭家屯 1911年10月10日に武漢市の紅楼付近で武昌起義が勃発した。東三省でも革命勢力が蜂起したが、再び東三省を統治する任にあたっていた趙爾巽は軍事力を行使して鎮圧に成功した。張も兵を率いて多くの革命派を殺害した。 翌年には清朝が滅び中華民国が成立したが、東三省においては趙爾巽がそのまま奉天都督となり、旧勢力は温存された。 張も革命勢力を鎮圧した功績により中将・陸軍師団長に昇進した。まもなく趙爾巽は満洲族で清の遺臣という前歴から都督を辞任し、しばらくして袁の配下である段芝貴が東三省を総管する地位に就くが、他省出身であることから現地とのつながりは薄かった。一方、張は既に発言力を得つつあった在地勢力の利益代表として影響力を強め、東三省での権益拡大を目論む日本とも協力関係を取り付けた。この時期の張は表向きは袁に従っていたが、張の力を恐れた袁は彼を子爵に任じている。「軍閥時代」も参照 1916年に袁が死去。これを好機と見た張は策略を用いて段を失脚させ、奉天省の支配権を獲得した。さらに勢力を広げ、1919年には黒竜江省・吉林省も含めた東三省全域を勢力圏に置き、「満洲の覇者」として君臨した。彼の率いる勢力は本拠地とした都市の名を採って奉天派と呼ばれ、張は「満洲王」と呼ばれるほどの威勢を誇った。1919年の2月から9月、グリゴリー・セミョーノフの配下ロマン・ウンゲルン・シュテルンベルクが張のもとを訪れ、外モンゴルのボグド・ハーン政権樹立に関する会合の準備を行った。 その後東三省を足場に中国内地に勢力を伸ばし、1920年の安直戦争では曹?の直隷派に味方する形で介入した。両軍は、日本と西原亀三の西原借款で繋がりの深かった国務総理段祺瑞率いる安徽派の駆逐に成功。1921年12月、張作霖は、梁士詒の国務院総理就任を支援した。1921年には張宗昌を任用した。
生涯
馬賊の頭目
清帝国
日本との関係の始まり
清朝への「帰順」
北洋軍閥との関係確立
北洋政府詳細は「北京政府」を参照
軍閥として自立1910年代の張作霖(前列中央)
張作霖の外交政策1925年の中国各地の軍閥の割拠図。図上の西語の凡例右列は直隷派への対抗勢力で、 が張作霖の奉天派を示す。
親日政策
Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef