張作霖爆殺事件
爆破現場の状況
場所 中華民国 奉天省瀋陽県皇姑区
座標京奉鉄道三洞橋
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度48分32.3秒 東経123度24分12.3秒 / 北緯41.808972度 東経123.403417度 / 41.808972; 123.403417
張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年(昭和3年・民国17年)6月4日、中華民国奉天市(現・中華人民共和国遼寧省瀋陽市)近郊で、日本の関東軍が奉天軍閥の指導者張作霖を暗殺した事件。関東軍はこの事件を国民革命軍の仕業に見せかけ、それを口実に南満洲に進行し占領しようとしていた。この事実は戦後まで秘匿されていた[1]。戦後、東京裁判で元陸軍田中隆吉および社会党左派で衆議院議員だった森島守人による証言が出るまでは犯人は不明とされていた[2]。
別名「奉天事件」[3]。中華民国では事件現場の地名を採って「皇姑屯事件」(こうことんじけん)とも言う。第二次世界大戦終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件」(まんしゅうぼうじゅうだいじけん)と呼ばれていた[4]。
背景張作霖
馬賊出身の張作霖は日露戦争で協力したため日本の庇護を受け、日本の関東軍による支援の下で段芝貴を失脚させて満洲での実効支配を確立、有力な軍閥指導者になっていた。
張作霖は日本の満洲保全の意向に反して、中国本土への進出の野望を逞しくし、1918年(大正7年)3月、段祺瑞内閣が再現した際には、長江奥地まで南征軍を進めた。1920年(大正9年)8月、安直戦争の際には直隷派を支援して勝利するが間もなく直隷派と対立。1922年(大正11年)、第一次奉直戦争を起こして敗北すると、張は東三省の独立を宣言し、日本との関係改善を声明した。鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、次の戦争に備えるための方便にすぎなかった[5]。
第一次国共合作(1924年)当時の諸外国の支援方針は、主に次の通りであった。
奉天軍(張作霖) ← 日本
直隷派 ← 欧米
中国国民党 ← ソビエト連邦(実質は党内の共産党員への支持)
1924年(大正13年)の第二次奉直戦争では、馮玉祥の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及んだ。1925年(大正14年)11月22日、最も信頼していた部下の郭松齢が叛旗を翻し、張は窮地に陥った。関東軍の支援で虎口を脱することができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。郭の叛乱は馮玉祥の教唆によるもので、馮の背後にはソ連がいたため、張作霖は呉佩孚と連合し「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした[5]。1927年(昭和2年)4月には北京のソ連大使館を襲撃し、中華民国とソ連の国交は断絶した。
国民党の北伐で直隷派が壊滅(1926年)した後、張作霖は中国に権益を持つ欧米(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど)の支援を得るため、日本から欧米寄りの姿勢に転換。権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていた米国が積極的に張作霖を支援した。
同時期、国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、1927年(昭和2年)4月独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した?介石が中国共産党員とそれに同調する一部の労働者を粛清し、国共合作が崩壊。北伐の継続は不可能となったが、この粛清以降、?介石は欧米勢力との連合に成功した。
1926年(大正15年)12月、ライバル達が続々と倒れていったため、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。大元帥就任後の張作霖は、更に反共・反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道(以下、満鉄)に対抗する鉄道路線網を構築しようとし[6]、満鉄と関東軍の権益を損なう事になった。この当時の支援方針は次の通りである。
奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本
国民党
中国共産党 ← ソ連
満洲における張作霖の声望は低下し民心は離反した。「今日のごとき軍閥の苛政にはとうてい堪えることはできない。……この不平は至るところに満ちており、この傾向は郭松齢事件以後、今日ではさらに濃厚になっている」と奉天東北大学教授らは述べている。奉天政府の財政は破綻の危機に瀕しており、1926年の歳出に占める軍事費の比率は97%で、収支は赤字であった。張政権は不換紙幣を濫発し、1917年には邦貨100円に対し奉天紙幣110元だったのが、1925年(大正14年)には490元、1927年(昭和2年)には4300元に暴落した[5]。
1928年(昭和3年)4月、?介石は欧米の支援を得て、再度の北伐をおこなう。 この当時の支援方針は次のような構図に変化していた。
奉天軍(張作霖)
国民党 ← 欧米
共産党 ← ソ連
当時の中華民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発した。?介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。
また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。しかし満鉄沿線外へ兵を進めるのに必要な勅命が下りず、この計画は中止された。
1928年(昭和3年)、以下のような記事が新聞発表された。電報 昭和3年6月1日参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官第47号5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり張作霖は楊宇霆に次の条件に依り日本と密約締の結すべきを命ぜり一.北京政府は日本に対し山東本島の99年の租借を許し二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く
1928年(昭和3年)6月4日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、本拠地である奉天へ列車で移動する。この時、日本側の対応として意見が分かれる。
田中義一首相
陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。
関東軍
軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。「張作霖の東三省復帰は満洲国建国の障害になる」として、排除方針を打ち出した。
4月19日、北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定し、5月3日、済南事件が起こった。さらに日本は、満洲から混成第28旅団を山東に派遣し、代わりに朝鮮の混成第40旅団を満洲に派遣した。5月16日、もし満洲に進入したら南北両軍の武装解除を行うことを閣議決定し、17日、英米仏伊の四カ国の大使を招いて、この方針を伝達し、18日、この内容を張作霖と?介石に通告した。