張之洞
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張之洞

プロフィール
出生:1837年9月2日
道光17年8月3日)
死去:1909年10月4日
宣統元年8月21日)
出身地:
職業:政治家
各種表記
繁体字:張之洞
簡体字:?之洞
?音:Zh?ng Zh?dong
注音二式:J?ng Jrdung
和名表記:ちょう しどう
発音転記:ヂャン ヂードン
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張之洞(中央)。漢口駐在外国領事・税関長らと。後列右端に永滝久吉。1905年。

張 之洞(ちょう しどう)は、中国末の政治家。洋務派官僚として重要な役割を果たした。曽国藩李鴻章左宗棠とならんで「四大名臣」とも称される。字は孝達、号は香濤・香巌・壺公・無競居士・抱冰。従兄に同時代の政治家である張之万、子に張燕卿張仁蠡、孫に張厚?(いずれも中華民国の政治家)などがいる。
生涯

道光17年(1837年)、直隷(現在の河北省南皮で生まれた。咸豊2年(1852年)に15歳で郷試に合格し、同治2年(1863年)に26歳で進士探花)となり、同治3年(1864年)に翰林院編修、教習、文淵閣校理を歴任した。光緒6年(1880年)、西太后が強引に光緒帝を擁立したことを官僚の呉可読が死をもって諌めた際、西太后を支持する態度をとったことから引き立てられ、光緒7年(1881年)に侍読、侍講学士、光緒8年(1882年)に内閣学士を歴任、1880年代山西巡撫両広総督湖広総督と昇進、主に武漢を拠点として洋務運動を推進し、富国強兵、殖産興業に努めた。

光緒6年に北のイリ地方を巡りロシア帝国と交渉を行い、リヴァディア条約(英語版)でイリ地方の大幅な割譲と経済特権など不平等条約を認めた全権大使崇厚の厳罰を主張して朝廷へ提出、清仏戦争では引退した馮子材を起用、日清戦争においては唐景ッと共に台湾民主国を援助して台湾へ出兵した日本への抵抗を試みるなど強硬派としての主張が目立ったが、両戦争の敗北後は対外融和的な姿勢もみせた[1]

光緒16年(1890年)に鉱床が見つかった大冶鉄鉱山の開発をドイツと共に進め、光緒19年(1893年)に自強学堂(後の武漢大学)を創立、光緒20年(1894年)に自強軍を設立(後に袁世凱新軍に編成)、外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発を推進した。また、湖北湖南の産物を外国へ輸出、外貨など経済的裏付けを取り貨幣改鋳と独自紙幣の発行で漢口を中心とした経済圏を作り上げた[2]

光緒24年(1898年)に起こった変法運動に対しては、変法派が組織していた強学会の会長を務めていたため理解を示していたが、著作である『勧学篇』(1898年)の中で「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。戊戌の政変で変法派が追放されてからは逼塞していたが、光緒26年(1900年)の義和団の乱の際には唐才常ら自立軍の蜂起鎮圧、盛宣懐張謇を通して劉坤一と共に東南互保を結び、光緒27年(1901年)には劉坤一と連名で「江楚会奏三折」と呼ばれる上奏で変法の詔勅を発布させた(光緒新政)。上奏では教育改革を唱え、光緒30年(1904年)に「奏定学堂章程」として政府から発布され光緒31年(1905年)の科挙の廃止、京師大学堂(後の北京大学)中心の近代教育整備に繋がった。


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