弩級戦艦
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弩級戦艦の呼び名のもととなったイギリス戦艦ドレッドノート日本最初の弩級戦艦[A 1]河内

弩級戦艦(どきゅうせんかん、: dreadnought)は、20世紀前半の戦艦の典型的なタイプを言う。1906年に進水したイギリス海軍の「ドレッドノート」は、単一口径巨砲(all-big-gun)による武装と蒸気タービンによる高速で大きな衝撃をもたらし、以後の戦艦のタイプを普通名詞として「ドレッドノート (dreadnought)」、それ以前のものを「プレ・ドレッドノート (pre-dreadnought)」と呼ぶようになった。

日本語では略してそれぞれ「弩級戦艦(弩級艦)」、「前弩級戦艦(前弩級艦)」と呼ぶ。なおこの「弩」はドレッドノートの頭の音を取った当て字であり、漢字の意味(おおゆみを表す)とは関係無い[1]。そのため、ド級とカタカナ表記する場合もある。
概要

戦艦ドレッドノートには2つの革命的特長があった。1つは「単一巨砲」による武装であり、もう1つは蒸気タービン推進である。ドレッドノートの出現によって在来艦が一気に旧式化し、“弩級かそれ以下か”が軍事力の重要な象徴となったため、新たな海軍建艦競争が始まることになった。特にイギリスドイツ建艦競争が著しかったが、それ以外にも影響は世界中に及んだ。

「単一巨砲」のコンセプトによる軍艦の開発はドレッドノートの建造の数年前から行われていた。日本帝国海軍1904年に単一巨砲艦の研究を開始したが、結局前弩級戦艦に落ち着いた。アメリカ海軍もまた単一巨砲艦を建造していた。弩級戦艦時代には目覚しい技術革新が続き、新しい艦になるごとにどんどん大きくなり、また武装や防御や推進機関も進歩した。新戦艦がドレッドノート自身を凌駕するのに10年もかからなかった。これらのより強力な艦は「超弩級戦艦 (super-dreadnoughts)」と呼ばれた。弩級戦艦の多くは第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約の下で廃棄されたが、より新しい多数の超弩級戦艦が第二次世界大戦を通して活躍した。

20世紀初頭は弩級戦艦建造に莫大な資源が投入されたが、弩級戦艦による艦隊同士の決戦が行われたのはユトランド沖海戦のただ1回のみであった。イギリス艦隊とドイツ艦隊が激突したその海戦は、結局双方とも決定的な結果を得ることなく終了した。第一次世界大戦後、すべての戦艦が弩級戦艦の性格を持つことになったため、「弩級艦」という用語はあまり使われなくなった。また、「弩級艦」という用語は、ドレッドノートの革命が生み出したもうひとつの艦種である巡洋戦艦についても用いられる[2]
起源

弩級戦艦の画期的な単一巨砲による武装は、20世紀初頭、各国海軍がその戦艦の火力と射程距離を増大しようとしたことの帰結である。

新たな高性能大口径砲は、1895年竣工のイギリスマジェスティック級戦艦で、口径12インチ (305 mm) の主砲が初めて採用された。

その後の前弩級戦艦の大多数もこの口径12インチ (305 mm) の主砲4門、副砲として7.5インチ (190 mm) から4.7インチ (120 mm) 程度の速射砲を6門ないし18門装備していた。また、8インチ (203 mm) ないし9.2インチ (234 mm) 程度の中間砲を備えているタイプもあった。しかし、いくつかの国では、すでに1903年頃までに、単一巨砲装備に関する重要な提案が行われていた[3]

単一巨砲装備(片舷火力8門以上)の設計は3ヶ国の海軍でほとんど同時に開始された。日本帝国海軍では、1904年度の薩摩型戦艦の計画の際、12インチ (305 mm) 砲8門搭載とする案があった(結局2巨砲混載の前弩級戦艦となった)[4]イギリス海軍は戦艦ドレッドノートの設計を1905年1月に開始し、その年の10月に起工した[5]アメリカ海軍は、1905年3月に12インチ砲8門を持つ戦艦ミシガンの承認を獲得し[5]1906年12月に起工した[6]

単一巨砲設計への移行は、均一かつ大口径の砲による武装が火力と射撃管制の両面で有利であることから行なわれた。最新の12インチ (305 mm) 砲は、10インチ (254 mm) または9.2インチ (234 mm) 砲よりも射程が長かった[7]。大部分の歴史家はまた、射撃管制での利点も指摘する。長射程砲は、一斉射撃の結果として得られる着弾を観測することで照準を調整できるが、口径が異なる場合は、着弾もまちまちとなるため、それを照準に反映させることは困難だった。しかしこの点が重要なポイントであるかどうかについてはまだ多少の議論が残されている[8]
遠距離射撃

1890年代の海戦では、海戦を決するのは中程度の口径(主に6インチ (152 mm))を持つ比較的短射程の速射砲であった。海軍の砲術は、目標を遠距離から砲撃するにはまだあまりにも不正確だった[A 2]。近距離ではより軽い砲の方が正確さで勝っており、速射砲の高い発射率は、目標に関して大量の弾丸を投射することを可能にした。1894年日清戦争黄海海戦では、勝利した日本海軍は距離が3,900 mを切るまで砲撃を開始せず、しかも大部分の戦闘は距離2,000 mで行われた[9]

1900年代初期には魚雷の射程が増加を見せ、イギリス、アメリカ両国の海軍首脳は、将来の戦艦はより遠距離で交戦することになると予想した[10]。1903年にアメリカ海軍は射程4,000ヤード (3,700 m) の魚雷を発注した[11]。イギリス、アメリカ両海軍の首脳は、より遠距離で敵と交戦する必要があると結論づけた[11][12]1900年、イギリス海軍の地中海艦隊司令長官のサー・ジョン・「ジャッキー」・フィッシャー提督は、6インチ (152 mm) 砲による6,000ヤード (5,500 m) での砲術訓練を命じた[12]。1904年には、アメリカの海軍大学校は、7,000 - 8,000ヤード (6,400 - 7300 m) の射程を持つ魚雷の戦艦戦術に対する影響を研究していた[11]

軽量の中口径砲の威力は限られており、遠距離射撃ではその正確さは著しく減少した[A 3]。また遠距離では高い発射率の利点も減少した。正確な射撃を行なうには、その前に行った斉射の着弾位置を観測することが必要であり、発射率が高ければ良いというものでもなかった[3]

20世紀初頭、大口径砲の有効射程は増加した。これは1904年までに砲術訓練によって確立され、1905年の日本海海戦において、実戦で裏付けられた[A 4]
巨砲混載艦イギリスの巨砲混載戦艦アガメムノンロード・ネルソン級)。12インチ (305 mm) 砲4門と9.2インチ (234 mm) 砲10門を搭載した。

より強力な戦艦を作るための1つのアプローチとして、副砲を減らし、代わりにより大口径の砲、たとえば9.2インチ (234 mm) あるいは10インチ (254 mm) の砲を装備するという手段がある。そうした戦艦は一般に「巨砲混載艦」、のちには「準弩級戦艦」と言われ、イギリスのキング・エドワード7世級ロード・ネルソン級、フランスのダントン級、日本の薩摩型などがそれに当たる[13]。これらの戦艦の設計にあたっては、その過程でしばしば「単一口径巨砲」という選択肢についても議論されていた[14]

アメリカ海軍協会報 (Proceedings of the US Naval Institute)」1902年6月号には、アメリカ海軍の主導的な砲術の専門家であるP・R・アルジャー教授の、12インチ (305 mm) 砲8門を連装砲塔4基に納めるという提案が掲載されている[15]。建艦補修局 (Bureau of Construction and Repair) は1902年5月、12門の10インチ (254 mm) 砲を連装砲塔に納め、前後に2基、両舷に4基配置する戦艦の提案を行った[15]。H・C・パウンドストーン少佐はより大きな戦艦に関する建白書を1902年12月にセオドア・ルーズベルト大統領に提出したが、その文書の付属別紙において、多数の11インチ (279 mm) 砲と9インチ (229 mm) 砲は、より少ない数の12インチ砲と9インチ砲より好ましいと述べている[3]


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