弦楽四重奏曲_(フォーレ)
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ガブリエル・フォーレ(1905年の写真)

弦楽四重奏曲(: Quatuor a cordes) ホ短調作品121は、近代フランス作曲家ガブリエル・フォーレ(1845年 - 1924年)が作曲した弦楽四重奏(ヴァイオリン2、ヴィオラチェロ)のための室内楽曲。全3楽章からなり、演奏時間は約23分[1]
作曲の経緯

フォーレの弦楽四重奏曲は、1923年8月から1924年9月にかけて作曲された[2]
着手

1923年2月中旬にピアノ三重奏曲を完成したフォーレは、6月25日から約3ヶ月間オート=サヴォワ県の村アヌシー=ル=ヴューに滞在した[3][4][5][6]

78歳のフォーレにとって、高齢から来る無気力状態が嘆きの種だったが、アヌシー=ル=ヴューはフォーレお気に入りの地であり、8月25日には親友フェルナン・マイヨの主催により、フォーレの『レクイエム』やオネゲルの『ダヴィデ王』抜粋などの演奏会が開かれ、このとき自作を指揮したオネゲルと会っている[3][5][6]。これらによって気力を取り戻したフォーレは、同年9月9日付けの妻マリーに宛てた手紙で、弦楽四重奏曲の着手について次のように報告している[5]

「私は毎日少しずつ曲を書いています。そう、ほんの少しです。これまで何度もあったように、この最初の模索がどんな運命をたどるのかまだ分かりません。実はピアノを使わない弦楽四重奏曲に着手したのです。これはベートーヴェンによって知られるようになった分野で、彼以外の人はみな恐れて、あまり手を付けていません。ためらってきました。サン=サーンスもそうで、それに取り組んだのはようやく晩年になってのことでした。そして彼の場合も、他の作曲分野のようにはうまくいきませんでした。そんなわけで、今度は私が恐れる番だとおっしゃるかもしれませんね……。だからそのことについては誰にも話してはいないのです。これからも目標に手が届くようになるまで、話すつもりはありません。『お仕事をなさっていますか』と聞かれても、私は図々しく『いいえ』と答えています。だから誰にもいわないでください。」 ? 1923年9月9日付、妻マリーに宛てたフォーレの手紙[5]

最初に書かれたのは第2楽章であり、9月12日に完成した。つづいて同年秋にパリの自宅で第1楽章が書かれた[7][3][5]

このころ、フォーレは音楽誌『ルヴュー・ミュジカル』編集者のアンリ・プリュニエールと親しくなり、同誌の特別号「ロンサールと音楽」のために歌曲の寄稿を依頼された。1923年11月3日にフォーレはプリュニエールの依頼を引き受け、ロンサールの詩に基づいて作曲を始めた。ところが、モーリス・ラヴェルもプリュニエールの依頼によって同一の詩を選んで作曲していたことが判明し、フォーレは自作の草稿を破棄してしまった。批評家のギュスターヴ・サマジルによると、このことを知ったラヴェルはパリ音楽院の師であったフォーレに優先権を譲ると申し出たものの、その内心は穏やかでなかったようだと述べている。フォーレにとって「遺言」ともなるはずだった歌曲は、このような経過によって失われた[5]
最後の年ディヴォンヌ=レ=バンのホテル地区(1920年ごろ)

1923年の冬からは、フォーレは動脈硬化による手足の痺れと半睡状態に見舞われた。年が明けて1924年の春も、次男フィリップの回想によれば、肉体の衰弱のために「陰気で退屈なものであった」という[3]

しかし、6月20日から約1ヶ月間ディヴォンヌ=レ=バンのグランド・ホテルに滞在したフォーレは、ディヴォンヌの静かで軽やかな空気や部屋のテラスから望めるアルプスの景色に囲まれながら終楽章に着手した。次男フィリップによれば、仕事はフォーレに喜びを与え、彼は自らを立ち直らせたある種の内なる喜悦に浸って毎日を送っていた[3][5]。7月末に4度目の滞在となるアヌシー=ル=ヴューに移ったフォーレは、9月12日に妻マリーに宛てて次のように報告している。

「昨晩、終楽章を仕上げました。これで四重奏曲は完成です。第1楽章と第2楽章の間にちょっとした新たな楽章を入れようという考えが起こらなければの話ですが……。しかし必ずしも必要なものではないので、少なくとも今のところは苦労してそれを追求する気はありません。」 ? 1924年9月12日付、妻マリーに宛てたフォーレの手紙[5]

9月19日、フォーレは肺炎を起こし、長男エマニュエルと次男フィリップが交替で看病に付いた。一命を取り留めたフォーレだったが、視力が衰え、自分の足で立つことができなくなった[7][5]

フォーレはこのとき、同行していたマルグリート・アッセルマンに、この作品に関する最後の口述を次のように残している。

「……ロジェ=デュカスに、時間がなかったために記せなかった速度、ニュアンス、及びその他の記号を書き加えてくれるように頼んでください……。私はこの弦楽四重奏曲が、いつも最初の演奏を聴いてくれるデュカス、プジョー、ラロ、ベレーグ、ラルマンらの幾人かの友人たちの前で試演された後に、出版、演奏されることを望みます。私は彼らの判断を信頼しているとともに、この四重奏曲が刊行されるべきか破棄されるべきかの決断も彼らに委ねます……。はじめの二つの楽章は、表情豊かで一貫して変わらぬ様式に基づいています。そして三つ目のものは、私のピアノ三重奏曲の終曲を思わせるような、スケルツォ風の軽快で楽しい曲調を持たねばなりません。」 ? 1924年、弦楽四重奏曲についてのフォーレの口述[3]

10月18日、衰弱したフォーレは列車でパリに戻った。次男フィリップは、「(フォーレは)途中、客車の窓ガラスに額をぶつけながら、太陽に照らされたブールジュ湖を凝視していた。これは父が見た最後の太陽であった。その後は、雲の垂れ込めた空の下で灰色の毎日を送ったのである。」と回想している[3][5]

自宅でもフォーレの体力や食欲は回復しなかった[5]。死の床で、フォーレは弦楽四重奏曲を試演するという申し出を断っている。聴覚障害のために「やめてくれ! きっとおぞましいものにしか聞こえないのだから」と言って、聴くのを拒んだという[7][8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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