弦楽四重奏曲集 作品9 は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンが1769年頃に作曲したと考えられている、全6曲(第19番?第24番)からなる弦楽四重奏曲集である。
作品9・作品17・作品20(太陽四重奏曲)の3つの弦楽四重奏曲集が書かれた時期は、ハイドンの「シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)期」と呼ばれる時代にあたる。 作品9の弦楽四重奏曲集は自筆原稿が残っておらず、正確な作曲年は不明だが、次の作品17の弦楽四重奏曲集が1771年に書かれていること、様式的に作品9が作品17に近いことから、1771年よりも少し前に書かれたと考えられる[1]。 筆写譜ははやく1771年のブライトコップフ社のカタログに見えている。1771年または1772年にアムステルダムのヨハン・ユリウス・フンメルから出版された[2]。曲順は必ずしもハイドンの意図を反映しておらず、ハイドン自筆の草稿目録(エントヴルフ・カタログ)には第4曲・第1曲・第3曲・第2曲・第5曲・第6曲の順に記されている[3]。 ハイドンは初期の弦楽四重奏曲を書いて以来、しばらく弦楽四重奏曲を書いていなかったが、1770年頃から作品9・17・20の3つの四重奏曲集を立て続けに作曲している。なぜこの時期に弦楽四重奏曲を固めて書いたのかは明らかでないが[4]、この期間にオペラやバリトン曲の作曲の仕事がなかったこと、1767年にエステルハージ公と楽団のコンサートマスターであったルイジ・トマジーニ
概要
作品1と作品2が6曲ごとにまとめられているのは出版社が勝手にやったことであってハイドンの関知するところではないが、作品9以降の弦楽四重奏曲集ではハイドン自身が6曲を単位として作曲している[4]。各曲を異なる調で作曲し、短調の曲を1曲(作品20では2曲)含める習慣も作品9で始まった[6]。
エントヴルフ・カタログによると曲名は「ディヴェルティメント」であり、低音楽器がチェロでなく「Basso」と記されていることも初期の弦楽四重奏曲と同様であるが[7]、内容的にはディヴェルティメントから離れて、より真剣な音楽になっている[4]。曲は4楽章形式になり、第2楽章がメヌエット、第3楽章が緩徐楽章になった。第1楽章は多くモデラートの速度指定がなされ、初期の作品よりも遥かに充実している[8]。
第1ヴァイオリンの華麗なパッセージが多いのがこの曲集の特徴になっている[9]。とくに緩徐楽章は第1ヴァイオリンの見せ場で、それ以外の楽器はごく簡単な伴奏に徹することが多い。また協奏曲のようにヴァイオリンのカデンツァが挿入されることもある。これはコンサートマスターのトマジーニを活躍させる目的があった[1]。ハーツはまたボッケリーニのようなイタリアの四重奏の影響を指摘している[10]。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1773年に作曲した『ウィーン四重奏曲』(K. 168-173)の6曲は、ハイドンの作品9・17・20の影響が強い[11]。 通し番号の()内は、偽作(作品7)や編曲作品を除いた番号である。
各曲の内容
第19番(第12番)ハ長調 作品9-1, Hob. III:19
第1楽章 モデラート
第2楽章 メヌエット:ウン・ポコ・アレグレットハ長調 - ハ短調、4分の3拍子。ワルツを思わせるハ長調の主部と、ハ短調のトリオ部からなる。トリオ部の後半部分は繰り返し記号が書かれておらず、半終止した後に主部へと戻る。