弥生町遺跡
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弥生式土器発掘ゆかりの地碑東京大学浅野キャンパス西端。弥生土器第1号の発見地点は所在不明となっている(碑の地点ではない)が、1987年(昭和62年)に記念建立。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}弥生町遺跡 弥生町遺跡の位置

弥生町遺跡(やよいちょういせき/やよいまちいせき)は、東京都文京区弥生にある弥生時代環濠集落遺跡。一部が国の史跡に指定されている(指定名称は「弥生二丁目遺跡」)。

弥生土器(当初は弥生式土器)・弥生時代の名称の元となった、弥生土器第1号の「本郷弥生町出土壺形土器」(国の重要文化財)が発見された遺跡として知られる。

弥生土器第1号は、当初は向ヶ岡貝塚(むかいがおかかいづか)の出土と報告された。しかし現在では、縄文時代後・晩期の貝塚遺跡は「向ヶ岡貝塚(弥生町貝塚)」、弥生時代後期の環濠集落遺跡は「弥生町遺跡」と別々に捉える傾向にあり、本項でもその見解に従って記述する。
概要本郷弥生町出土壺形土器
(弥生土器第1号、複製)原品は国の重要文化財東京大学総合研究博物館蔵)。本複製は文京ふるさと歴史館蔵、新宿歴史博物館特別展示時に撮影。

東京都区内、本郷台東縁の台地の向ヶ岡(むかいがおか)に所在する。向ヶ岡台地には、縄文時代後・晩期の向ヶ岡貝塚(弥生町貝塚)と弥生時代後期の環濠集落の弥生町遺跡が重複して広がり、現在は台地南半に東京大学浅野キャンパスが所在する。1884年明治17年)に有坂?蔵らが発見した土器を元に弥生土器(弥生式土器)・弥生時代の土器名・時代名が採られたことで知られるほか、1975年昭和50年)以降に発掘調査が実施されている。

有坂?蔵らが発見した土器の出土地点はその後に所在不明となり、地点論争が展開したが現在までに確定には至っていない。しかしながら、この土器と同類の土器を基に南関東地方の後期弥生土器の1型式として「弥生町式土器」が定められたほか、1975年(昭和50年)以降の調査で弥生時代の環濠・方形周溝墓が検出されたことで、東京大学浅野キャンパス構内を南東限とする環濠集落としての実態も明らかとなりつつある。近年では、土器の評価として弥生町出土土器を「弥生町式」とは別に考える説や、弥生町出土土器を弥生土器でなく古墳時代の土器(土師器)の範疇に捉える説などの新しい展開が見られる。学史的に重要な遺跡であるとともに、南関東地方における弥生時代の様相を考察するうえでも重要視される遺跡になる。

遺跡域の一部は1976年(昭和51年)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定され、出土した弥生土器第1号は1975年(昭和50年)に国の重要文化財に指定されている。
歴史
地名「弥生」の誕生向岡記碑(文京区指定文化財)徳川斉昭の自撰自書碑。「弥生」の地名は碑文中の「夜余秘(やよひ)」に由来する。東京大学浅野キャンパス情報基盤センター下。

江戸時代、当地は「向岡(むかいがおか、向ヶ岡/向ヶ丘)」と呼称されていた。これは、寛永寺のある「忍岡(忍ヶ岡/上野の岡)」と不忍池を挟んで対峙する台地としての地名になる。この向岡には、元和8年(1622年)に水戸藩の下屋敷(のち中屋敷、駒込邸)が置かれた。文政11年(1828年)3月には徳川斉昭水戸藩9代藩主、当時は就任前)が邸内に向岡の由来を記した向岡記碑(文京区指定有形文化財)を建立し、この碑が後年の「弥生」の地名誕生の元となる[1][2]

1872年明治5年)、東京府本郷区に「向ヶ岡弥生町」の町名が設定された(現在の東京都文京区弥生二丁目)。この時に、「弥生」は向岡記碑の碑文中の「夜余秘(やよひ)」から採ったとされる。そしてこの「弥生」の地名が、「弥生土器(弥生式土器)」ひいては「弥生時代」という土器名・時代名に採用されることになる[1][2]
弥生土器第1号の発見有坂?蔵1884年(明治17年)に弥生土器第1号を発見。

1884年明治17年)3月2日、当時東京大学予備門の学生であった有坂?蔵は、坪井正五郎白井光太郎とともに大学近くの向ヶ岡弥生町にあった貝塚を訪れた際、1点の壺形土器を見出した。この土器は坪井正五郎に預けられ、東京大学の人類学教室で保管されることとなった。この土器はそれまで知られていた縄文式土器(縄文土器)とはまったく異なる様式の土器であった。そして1896年(明治29年)の蒔田鎗次郎の活字化以来、同様の土器は最初の出土地の地名をとって「弥生式土器」と呼称されるようになり、1975年昭和50年)の佐原真の提唱後は「弥生土器」と呼称されていった[3][4]

1889年(明治22年)、坪井正五郎は『東洋学芸雑誌』で向ヶ岡貝塚について報告している。その中で、貝塚の位置について「大学の北隣、即ち向ヶ岡射的場の西の原、根津に臨んだ崖際」としているが、壺形土器の出土地点については触れていない。坪井正五郎のいう「射的場」とは、今の文京区弥生二丁目にあった警視局射的場のことである。この射的場の敷地は1888年(明治21年)に民間に払い下げられ、北半は浅野侯爵邸、南半は一般の住宅地となっていた。坪井正五郎はスケッチを残しており、このスケッチに基づけば言問通り北側の異人坂を登りきった付近に想定しうる[3][5][4]

1923年大正12年)、発掘からおよそ40年経ち、有坂?蔵は件の土器についての文章を『人類学雑誌』に発表した。その中で、貝塚の位置について「(大学の)裏門の筋向ひには陸軍の射的場があって、其の西北の方に貝塚が根津の裏の高い丘の上にあった」として、坪井正五郎とほぼ同内容のことを述べている。ただし、有坂は「向ヶ岡と云ふ場所は、大学の裏の道を矩てた通りの向ひ側で、根津の街を眼下に見る丘であるが、今日では弥生町の街が建って、遺跡の正確な位置は解りません」とも述べており、この時点で貝塚の所在は失われている。有坂の回想によれば、土器発見時の遺跡周辺は、家など1軒もない淋しい場所で、ウサギやキツネの出没する野原であったという。有坂?蔵はその後も回顧談を残しているが、その中で証言が変化していることが注意される[3][5]

その後、江坂輝弥杉原荘介斎藤忠太田博太郎らが土器出土地点を推定して地点論争が展開したが、確定には至っていない。また「弥生」の地名を巡って、1964年昭和39年)に向ヶ岡弥生町の弥生1丁目・弥生2丁目・根津1丁目への再編が決定されたことで、弥生土器発見推定地が「根津」の所属となり、それに反対する地名保存住民運動が生じている(弥生町名問題)。運動の結果、1967年(昭和42年)に根津1丁目編入地域は弥生2丁目に再編入されている[5][1]
弥生二丁目遺跡の調査国の史跡「弥生二丁目遺跡」昭和50年調査地点。東京大学浅野キャンパス工学部9号館東。

1974年(昭和49年)、言問通り南側の東京大学浅野キャンパスで弥生土器が出土したという情報があった。現地は工学部9号館の東方の小高い場所で、樹木が倒伏した跡に土器が露出しているのを、地元の小学校の生徒が拾い集めているということであった。この場所には新しい研究棟が建設予定だったこともあり、発掘調査の実施が決まった。

1975年(昭和50年)、東京大学文学部考古学研究室の佐藤達夫らによる発掘調査が実施された。調査の結果、溝2条が検出され、溝の交差部付近で貝層の堆積が確認された。この貝層はマガキを主体とした主鹹貝塚(海棲貝類を主とする貝塚)とされた。また溝からは弥生土器5個体、灼骨、砥石などが出土した。この溝が環濠であるとすると、集落は調査地点から北西方向の言問通り方面へ広がっていたとみられる。


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