弥生土器
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壺形土器・後期(1?3世紀)
東京都大田区久が原出土

弥生土器(やよいどき)は、弥生時代に使われた軟質素焼き土器[1][2]。一般的に「縄文土器と比べると形・装飾が簡素で、高温で焼かれて明るく硬い」と評されるが、実際には一概に言い切れるものではなく、地域ごとに個性豊かに発達した[3][4]。また、先行する縄文土器や後続する土師器との区別も明確ではなく、その線引きは研究者でも一致していない[3][1][注釈 1]

弥生土器は狩猟採集社会から農耕社会に変化する過程で、在来土器に朝鮮半島の無文土器の製作技術や彩文手法を採り入れて成立したとする説が有力である[7][3][4]縄文時代に煮炊きに用いられた深鉢は、弥生土器では蓋を被せる甕に変化し、さらに穀物を保存するための壺が大量に作られるようになる。また、食器として用いた高杯や、葬祭祭祀に用いる甕棺特殊器台・特殊壺などは、弥生文化の一面を表すと考えられる[1]。現在の弥生土器研究は地域ごとに行われているが、いわゆる広域編年については見解が一致していない[8]
弥生時代と弥生土器

最初の弥生土器は1884年に弥生町遺跡から発見され、その地名にちなんで弥生(町)式土器と名付けられた。当初、縄文式土器と弥生式土器は使用した民族が違ったとする説もあったが、1910年代に同一の遺跡の下層から縄文式土器、上層から弥生式土器が発見され、縄文式土器に後続するのが弥生式土器であると考えられるようになった[1]。1920年代に山内清男が弥生式土器の底に稲籾の圧痕を発見した事で、「農民の土器」として定着した。その後、研究が進展すると「弥生式土器が使われた時代を弥生(式)時代」と呼ぶようになった[9][1]

しかし弥生文化の研究が進むと、弥生式土器が地域ごとに様々な模様を持つことが明らかになり、土器の型式(模様)で時代を区分することに疑問を呈する意見が多くなってきた。1975年(昭和50年)に佐原真は、弥生時代を「食料生産を基礎とする生活が始まり、前方後円墳が出現するまでの時代」と再定義し、「弥生時代の土器を弥生土器」と呼ぶことを提案した[10]。現在ではこの定義が一般的である[9][注釈 2]

一方で、弥生時代は前期・中期・後期に3分される事が多いが、これらは依然として土器編年により区分されている。西日本で遠賀川式土器とそれに並行する弥生土器を前期、近畿地方で櫛描文・凹線文の土器とそれに並行する弥生土器を中期、西日本で無文化が進行した土器とそれに並行する弥生土器を後期と呼ぶことが一般的で、その前後に早期や終末期を加えることもある[11][注釈 3]
特徴長谷部言人提唱の「器形による土器の器種分類」 1.甕形土器、2.壺形土器、3.深鉢形土器、4.浅鉢形土器、5.皿形土器、6.高坏形土器
器種

水田稲作の普及によって食生活を中心に生活様式が一変するが、その影響は土器の器種組成[注釈 4]と大きさにも見て取ることができる[11]。弥生土器は炊飯に使われる甕・穀物の保存に使われる壺を中心に、盛り付け用の高坏・取り分け用の鉢を加えた4種の器種を基本とする事が多く、甕と壺には蓋が付く[13][3][1][注釈 5]。特に壺は弥生文化を象徴する器種で[14][15]、いずれの地域でも水田稲作が始まると壺の比率は1割程度になり、稲作が主たる食糧生産として定着するとその割合は3割を超えるとする研究もある[14]

一方で、特定の地方にのみ見られる器種もある。北部九州で製作された棺専用の甕棺[15][注釈 6]、関東地方で再葬時の骨壺に使用された人面土器[15][17]、近畿で生産された取っ手と円筒形の頸を持つ水差し[18]、西日本に見られる底に穴を開けた有孔甕[19]、瀬戸内に見られる器台が極めて大型した特殊器台とこれに据える底のない特殊壺[20]、伊勢湾沿岸にみられる胴に丸い穴を開けた丸窓付土器[21]、畿内を中心に広がり祭祀に用いられた手焙形土器[22]などが挙げられる。

大阪府柏原市・藤井寺市 船橋遺跡出土

壺形土器
中期(前2?前1世紀)


後期(1?3世紀)

鉢形土器
中期(前2?前1世紀)

高杯
中期(前2?前1世紀)

装飾

弥生土器は簡素な土器とされるが、装飾が失われた訳ではない。北部九州では沈線文を中心に木葉文や重弧文などあっさりとした文様を施した遠賀川式土器が流行し、弥生中期になると無文になっていくが赤彩することが多くなる[23]。遠賀川式土器は近畿地方でも流行するが、弥生中期には逆に文様が増えて櫛描文・簾状文で器面を埋め尽くすようになり、やがて効率よく回転台を用いて凹線文を施すようになる[24]。一方で東日本では亀ヶ岡式(縄文)土器から発展した磨削縄文など縄文の影響が残り、関東地方では古墳時代まで、東北地方では古墳時代以降も縄文が残る[25]
製作法

弥生土器は轆轤を使わず粘土紐を積み上げて成形し、野焼きによって焼成される[1]。成形については弥生時代中期からタタキ技法が取り入れられ、時代が降るにつれてタタキ技法が発達し、成形の工程がより効率化されていく[26]。野焼きをする際は土器を藁や土で覆って焼かれたと考えられ、縄文土器に比べると焼成温度が高く仕上がりは全体的に赤みを帯び、燃料に触れた部分に黒斑が生じる。また後期になると重ね焼きが行われたと考えられ、より効率的な生産が行われた[27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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