この項目では、神奈川県横浜市南区の寺院について説明しています。同区の町名については「弘明寺町」を、鉄道駅については「弘明寺駅」をご覧ください。
神奈川県横浜市南区弘明寺町字山下267
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度25分27秒 東経139度35分50.7秒 / 北緯35.42417度 東経139.597417度 / 35.42417; 139.597417
弘明寺(ぐみょうじ)は、神奈川県横浜市南区弘明寺町にある高野山真言宗の寺院。瑞應山蓮華院と号し、横浜市内最古の寺院である。本尊の木造十一面観世音菩薩立像(通称「弘明寺観音」)は国の重要文化財。寺名は町名や駅名などにも広く使われ、江戸時代から1889年(明治22年)までは一帯を弘明寺村(のちに弘明寺町)と呼んでいた[2]。
本尊真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:ありがたやちかひの海をかたむけて そそぐめぐみにさむるほのやみ『江戸名所図会』巻之二より 寺名は、鎌倉時代には「求
概要
2004年(平成16年)、弘明寺が事務局となり「病苦研究会」という真言宗有志の団体が形成されている。終末期医療における心理面のサポートに仏教思想を活かすための試みである。 寺伝によると、721年(養老5年)にインドの僧・善無畏が当地に結界を創り、737年(天平9年)に行基が観音像を刻んで一宇を建立したと伝えられ、行基をもって開基としている。 弘仁年間(9世紀初期)には空海が双身歓喜天(弘明寺聖天)を彫刻し安置したという。 1044年、光慧上人により瓦葺き本堂が建立された。本尊である木造十一面観音立像の彫刻予想年代と、この本堂建立の年代がほぼ一致することから、この頃が実際の開山と思われる。 戦国時代には北条早雲から寺領を、江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、坂東三十三箇所観音霊場の十四番札所として信仰を集めた。 明治時代を迎えると、仏教寺院は全国で大弾圧を受け、当山も寺領は御朱印と共に新政府に没集された。明治中期には無住職となって寺伝、寺宝の数々、住職系図までもが紛失する事態となった。 1901年(明治34年)、渡辺寛玉師が住職に就任すると、弘明寺保勝会が設立され、弘明寺の復興と町おこしに皆邁進した。大岡川沿いの桜並木も、この当時植樹された。 かつては広い寺有地を有していたが、廃仏毀釈による公有地化で北側の大半(現・弘明寺公園)を横浜市へ譲渡し、北側には湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)弘明寺駅が開業した。さらに駅周辺では寺自身が民有化を進めたことなどにより、寺有地は過去の約2割にすぎなくなっている。 観音像など秘仏とはなっているが、内陣参拝で拝観できる。 元は境内であった弘明寺公園と、弘明寺商店街のほぼ中央を横切る大岡川の両岸は、横浜市内でも有数の桜の名所となっている。 弘明寺から鎌倉街道まで、アーケード商店街「弘明寺商店街」として下町の賑わいを残す。レトロモダンな雰囲気を求めて、しばしばテレビ番組やCMのロケ地として使われる。このアーケード街は、江戸時代に栄えた弘明寺の門前町としばしば混同されるが、終戦後の闇市を起源とするものであり、同じものではない。
歴史
境内仁王門
本堂 - 1044年(寛徳元年)、光慧上人が建立。当時の古材が床板として使われている。
四脚門 - 1411年(応永18年)建立。楓関門と呼ばれ、横浜市内最古の門である。
仁王門 - 江戸時代に建てられたといわれている。
七つ石 - 善無畏が七つの盤石を埋めて結界を創ったと伝わる。霊石として信仰を集めている。
身代地蔵 - 京浜急行電鉄が2001年に奉納。
祭事・年中行事
縁日
5月下旬から9月上旬までの毎月「8」の付く日は観音、「3」の付く日は聖天の縁日となっており、さまざまな露天商が店を開き、遠方からも弘明寺参詣客とともに多くの人で賑わう。
節分
節分の豆まきは戦前から60年以上続けられ、毎年約1,000人を集める名物行事となっていたが、福豆を取ろうと人々が押し合うなど危険な状態となり、警備員の指示に従わない来場者が増えたため、寺側が過去の事故(1956年の弥彦神社事件)から群集事故の危険性があると判断し、2007年を最後に中止されていた[4]。その後、豆まき復活を求める声に応えて2015年2月3日に「節分法会(ほうえ)」が行われ、境内での豆まきが8年ぶりに再開された。豆まき再開にあたっては弘明寺商店街も協力し、東日本大震災の被災地の物産展を開催して東北の復興を支援した[4]。
文化財
木造十一面観世音菩薩立像(弘明寺観音)
ハルニレの一木造りで像高181.7cm。鉈彫りの典型的な作例として有名なもので、平安時代中期の作と伝えられ、国の重要文化財に指定されている[5]。
木造黒漆花瓶 二口
ケヤキを轆轤で成型した、「亞」の字の形をした黒漆塗りの花瓶。1590年修理の銘がある。高さ70cmあり、この大きさの木造は類例がない。横浜市指定有形文化財に指定されている。
梵鐘
1798年(寛政10年)製。横浜市指定の有形文化財。
周辺
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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