文永の役
『蒙古襲来絵詞』より文永の役の鳥飼潟の戦い
戦争:元寇
年月日:1274年11月4日-19日
(文永11年10月5日-20日/至元11年10月5日-20日)
場所: 日本、九州北部
結果:日本の勝利
モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍の撤退
交戦勢力
鎌倉幕府
元
高麗
指導者・指揮官
執権 北条時宗
博多
鎮西西方奉行 少弐資能[1]
鎮西東方奉行 大友頼泰[1]
西方奉行一門 少弐経資
西方奉行一門 少弐景資
東方奉行一門 戸次重秀
総司令官
東征都元帥 ヒンドゥ(忻都)→クドゥン(忽敦)[2]
蒙古・漢軍
東征左副都元帥 劉復亨
東征右副都元帥 洪茶丘
昭勇大将軍 アラテムル(阿剌帖木児)[3]
管軍万戸 某[4]
不詳 三没合[5]
高麗軍(三翼軍)
以下三翼軍内訳中軍
都督使 金方慶
知兵馬事 朴之亮・金忻
副使 任ト
左翼軍
左軍使 金? †
知兵馬事 韋得儒
副使 孫世貞
右翼軍
右軍使 金文庇
知兵馬事 羅裕・朴保
副使 潘阜[6]
戦力
兵力不明
総大将・少弐景資手勢 500余騎[7]
肥前御家人・白石通泰手勢 100余騎[8]
肥後御家人・菊池武房手勢 100余騎[9]
『元史』では10万[10]
『八幡愚童訓』各写本により記載兵力異同(詳しくは八幡愚童訓#諸本研究と記載の異同を参照)兵船300余艘[11]
総数 27,000?39,700人[12]
蒙古・漢軍 15,000[13]?25,000人[6][14][15]
高麗軍 5,300?8,000人[16]
高麗水夫 6,700人軍船 726?900艘
千料舟 126[17]?300艘
バートル(抜都魯)軽疾舟 300艘
汲水小舟 300艘[18]
損害
総損害
日本人195人戦死、下郎は数を知らず[19]
戦闘による両軍戦死者多数[20]
対馬
対馬守護代 宗資国以下80余騎戦死[21]
壱岐
壱岐守護代 平景隆以下100余騎戦死[22]
肥前沿岸
松浦党 佐志房以下数百人戦死
不帰還者 13,500余人[23]
戦闘による両軍戦死者多数[20]座礁船 約150艘