弘南バス
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弘南バス株式会社
KONAN BUS Co.,Ltd.

種類株式会社
本社所在地 日本
036-8326
青森県弘前市藤野二丁目3番地6
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度37分33.02秒 東経140度28分3.91秒 / 北緯40.6258389度 東経140.4677528度 / 40.6258389; 140.4677528座標: 北緯40度37分33.02秒 東経140度28分3.91秒 / 北緯40.6258389度 東経140.4677528度 / 40.6258389; 140.4677528
設立1941年4月17日
(弘前乗合自動車株式会社)
業種陸運業
法人番号2420001009054
事業内容一般乗合旅客自動車運送事業
一般貸切旅客自動車運送事業 他
代表者代表取締役社長 工藤 智久
資本金1億円
従業員数484名(2020年8月時点)
外部リンクhttps://www.konanbus.com/
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弘南バス株式会社(こうなんバス)は青森県弘前市に本社を置くバス事業者である。津軽地方を中心に運行されている。
沿革

弘南鉄道では平賀駅を利用する山手一帯(旧・尾崎村、旧・町居村、旧・竹館村)の乗降客の利便を図るため、1931年から8人乗りバスの直営運転を開始した。赤字のため1934年に運行休止となり、平賀駅前の個人に運営を委託し運行再開したが、さらに経営状態を悪化させてしまい再度の運行休止となった。

そこで1936年に直営に戻し、自動車部の拡大路線に方針を転換した。まずは平川バス(弘前 - 平賀 - 町居間、弘前市内線)を買収し、体制を建て直したのちに運行を再開した。翌年には上原バス(黒石 - 大鰐間)を買収し、平賀駅前にバス車庫を建設してタクシー部も開業、沿線一帯の交通を独占した。1938年4月1日時点でのバス路線延長が58.4kmとなり、内訳は平賀 - 唐竹間5.2 km・弘前 - 尾崎間17.4 km・弘前駅 - 茂森間3.8 km・弘前 - 蔵館間16.1 km・川部 - 蔵館間15.9kmであった。

戦時下におけるバス統制の国策に乗って買収はさらに加速し、1941年3月までに弘前市を中心に中津軽郡南津軽郡の交通はほぼ弘南鉄道に掌握された。この当時は戦時下で、車輌の入手難・燃料の配給規制から業績の伸び悩みがあり、本業の鉄道経営も容易ではなかった。株主の間にはバス部門の事業拡大に対して前途を憂慮する意見が広がり、1941年4月17日の臨時株主総会において自動車部の分離を決議した[1]。この時の決議内容は、先に買収交渉が成立していた弘前乗合自動車会社(弘前バス)に弘南鉄道の自動車運輸事業を有償譲渡し、新たに弘前乗合自動車株式会社(のち会社名を弘南バス株式会社と改称)を設立し、3分の2の株式を弘南鉄道が取得、残る3分の1を弘南鉄道の重役個人が取得するというもので、初代社長は当時の弘南鉄道社長が兼務した[2]

戦局の悪化により物資が窮乏し、1941年のガソリンの配給停止によって木炭車・薪車・ガス車での運行を余儀なくされた。1943年には燃料・車輌部品[3] が入手困難となり運行休止路線が続出した。戦時末期には運行可能車輌が13輌にまで落ち込んだことから、最小限度確保路線として「田代線」「百沢線」「大鰐線」に各2輌、「相馬線」「鬼沢線」に各1輌、黒石管内に計5輌を割り当てた。終戦後はインフレで経済が大混乱に陥った。諸物資が払底し、同時に資金封鎖が行われたため、事業継続が困難な状況に置かれ、何度か運行不能の危機に直面し、ダイヤの縮小や路線の運休に追い込まれた。1948年に物資の統制が一部解除されたことから燃料や資材が徐々に出回りだし、休止中の路線の運行を順次再開した。

中弘南地区の交通利便に比べて整備が遅れていた板柳地区を開拓するため、1951年に板柳営業所を開設した。これより先の1950年に板柳バスが設立されていたが、諸事情から経営不能の状態に陥ったため、弘南バスが経営の委託を受け、経営再建とともに合併準備を進め、1953年に板柳バスを買収した。これが西北五地区への進出の基盤となり、その後「板柳 - 鯵ヶ沢線」の運行を開始した。

この時期、五所川原市北津軽郡西津軽郡津軽鉄道自動車部(津鉄バス)に統合されていた。1953年に弘南バスは「弘前 - 五所川原線」で津鉄バスとの相互乗り入れを成立させ、西北五地区の路線拡大に乗り出した。そんな中、津軽鉄道の業績不振からバス部門を売却することになり、弘前電鉄も買収に乗り出した[4] ものの、津軽鉄道との折衝により1955年に弘南バスとの買収統合が成立した。これにより、東津軽郡を除く津軽地方一体に路線網を持つことになった。また、同時期に「弘前 - 大館線」で秋北バスとの相互乗り入れでの運行を開始し、これが初の県外への定期路線となった。

1985年の東北新幹線上野駅延伸に合わせ、弘前から盛岡駅での新幹線接続を目的に高速バスヨーデル号」(弘前 - 盛岡線)の運行を国鉄バス(→JR東日本バス→JRバス東北[5])・岩手県北バス岩手県交通の4社共同で開始した。「ヨーデル号」は地元客や帰省客に受け入れられ、社内でも有数のドル箱路線となった[6]。1986年には京浜急行電鉄(現:京浜急行バス)と国内初の共同運行による夜行高速バス「ノクターン号」(弘前 - 東京線)の運行を開始し、それまでの国鉄夜行列車に較べて、時間を有効に活用でき、運賃面でも格安なことから利用者からの支持を得た。これが高速バス路線網を広げるきっかけとなって、「ヨーデル号」「ノクターン号」は五所川原発着便が設定され、青森発着の「あすなろ号」「ラ・フォーレ号」の運行を開始した。その後、仙台便や東京昼行便の開設や「弘前 - 青森線」「五所川原 - 青森線」や「南軽号」(弘前 - 八戸線)などの短距離路線の開拓[7] が行われた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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