弘前大教授夫人殺し事件
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「弘前事件」はこの項目へ転送されています。2001年発生の強盗殺人・放火事件については「武富士弘前支店強盗殺人・放火事件」をご覧ください。

弘前大教授夫人殺し事件
場所 日本青森県弘前市在府町
日付1949年昭和24年)8月6日
23時過ぎ (UTC+9)
概要弘前医科大学教授松永藤雄の妻が在府町の寄宿先で刺殺された殺人事件、および無実の男性が逮捕・起訴されて有罪に処された冤罪事件。
攻撃手段頸部への刺突
攻撃側人数1人
武器グラインダーで尖らせたヤスリ
死亡者1人
被害者那須隆(冤罪被害者)
犯人#真犯人X
動機被害者の身体に触りたかった(Xの主張)
謝罪Xは再審開始前に那須に謝罪したが、判決後には那須を詰る発言をした。警察・検察・裁判所からの謝罪は一切なかった。
補償再審無罪判決後の那須に刑事補償として1399万6800円(すべて亡父の墓代・再審費用・国賠訴訟費用に消費)。
刑事訴訟那須に懲役15年の誤判(10年間の服役を経て、出所後に再審で無罪が確定)。真犯人Xは公訴時効が成立したため処罰されず。
民事訴訟那須が再審判決後に国賠訴訟を提起するも全面敗訴(#国家賠償請求訴訟)。
影響法医学的には血痕のみを証拠として有罪判決に辿り着いたモデルケースとなった一方、無実の罪で投獄された那須とその家族は経済的・精神的に大きな負担・苦痛を受けた(#判決の影響)。
管轄弘前市警察
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弘前大教授夫人殺し事件(ひろさきだいきょうじゅふじんごろしじけん)は、1949年昭和24年)8月6日深夜、青森県弘前市で発生した殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。略称は弘前事件。殺人被害者の名を取って松永事件とも呼ばれる[1]
概要

経過年月日事柄
1949年08月06日事件発生。
08月22日那須隆、逮捕される。
10月24日那須、起訴される。
11月01日青森地裁弘前支部で一審公判開始。
1951年01月12日一審終了。那須は無罪となる。
06月19日仙台高裁で控訴審開始。
1952年05月31日控訴審終了。那須に懲役15年の有罪判決。
1953年02月19日最高裁が上告を棄却。那須の有罪が確定。

1963年01月18日那須、仮釈放される。

1971年05月28日真犯人が出現。
07月13日那須、仙台高裁へ再審請求。
1974年12月13日高裁刑事第一部、請求を棄却。
1976年07月13日高裁刑事第二部、棄却決定を取消し再審開始を決定。
09月28日再審開始。
1977年02月15日再審終了。那須は無罪となる。

10月22日那須、国家賠償を請求。
1981年04月27日青森地裁弘前支部で一審終了。那須が部分勝訴。
1986年11月28日仙台高裁で控訴審終了。那須が全面敗訴。
1990年07月20日最高裁が上告を棄却。

2008年01月24日那須隆、死去。

1949年8月6日深夜、弘前医科大学教授松永藤雄の妻が在府町の寄宿先で刺殺された。弘前市警察は近隣住民の無職の男性、那須隆を逮捕し、勾留延長や別件逮捕などを利用して厳しく追及した。那須は一貫して無実を主張したがアリバイはなく、事件の目撃者からも犯人であると断定され、精神鑑定でも那須は変態性欲者であるとの結果が出された。加えて那須の衣服に対する血痕鑑定でも血液の付着があるとの結果が出されたため、同年10月に那須は青森地方裁判所弘前支部へ起訴された。

一審では血液学の権威である東京大学医学部法医学教室教授古畑種基も数学を援用して那須の衣服の鑑定を行い、それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論した。これに対し那須の弁護人らは、実施された鑑定には不自然な点があるとして、物証は捏造されたものであると主張した。1951年(昭和26年)に下った一審判決では那須は殺人罪について無罪とされたが、裁判長はその理由を一切説明しなかった。仙台高等裁判所で開かれた控訴審では那須が変態性欲者ではないとする精神鑑定の結果も出されたが、1952年(昭和27年)の控訴審判決は古畑の鑑定を始めとしてほぼ全面的に検察側の主張を容れ、那須は懲役15年の有罪判決を受けた。やがて判決が確定した那須は10年間服役し、この事件は法医学の力が有罪判決に寄与したモデルケースとして知られるようになった。

しかし、事件から20年以上が経過した1971年(昭和46年)になって、事件当時は弘前在住で那須の知人であった男が、自らが事件の真犯人であると名乗り出た。那須は日本弁護士連合会読売新聞などの協力を得て再審を請求し、その後行われた物証の再鑑定でも、過去の血痕鑑定には多くの批判が加えられた。1974年(昭和49年)に請求は一度棄却されたが、翌年に下された白鳥決定により再審の門戸が拡げられたことにより間もなく再審の開始が決定された。そして事件から28年が経過した1977年(昭和52年)、仙台高裁は物証の捏造を強く示唆して那須に対する殺人の罪を撤回し、事件は冤罪と認められた。だが、その後の国家賠償請求訴訟では国側の過失責任は否定され、那須の全面敗訴となった。
背景那須隆

1945年昭和20年)、第二次世界大戦での敗北によって連合国軍日本に進駐し、占領政策の一環として学制改革が開始された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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