弘前ねぷた
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弘前ねぷたまつり
弘前ねぷたまつりの扇ねぷた(鏡絵)
イベントの種類祭り
開催時期8月1日 - 8月7日
会場青森県弘前市
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弘前ねぷたまつりの扇ねぷた(見送り絵)

弘前ねぷたまつり(ひろさきねぷたまつり)は、青森県弘前市で開催されるねぶた

弘前さくらまつり弘前城菊と紅葉まつり弘前城雪燈籠まつりに並び「弘前四大まつり」の一つに数えられる[1]。大勢の市民が「ヤーヤドー」の掛け声とともに、武者絵が描かれた山車を引いて市内を練り歩く。弘前ねぷたには扇ねぷた(扇型)と組ねぷた(人形型)があり、総数約80台の県内最多のねぷたが運行される[2]
起源

弘前ねぷたまつりの起源については諸説ある[3]

(伝説)平安時代の初期、征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷をおびき出すために大きな人形を作った。

(伝承)1593年(文禄2年)旧暦7月に藩祖津軽為信が京都滞在中に盂蘭盆会で二間四方の大燈籠を出した。

(定説)江戸時代元禄期後半からの「七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流し」や「盆燈籠」などが融合変化し、現在の華麗なねぷたに発展してきた。

語源は、「眠り流し」→「ねむた流し」→「ねむた」→「ねぷた(ねぶた)」と転訛(表記は佞武多、禰ふたと様々ある)。「眠り流し」は日本各地で行われている[3]

農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払い、厄災・邪悪を水に流して村の外に送り出す行事のひとつ[3]
沿革

1593年(文禄2年) - 藩祖・津軽為信が京都の津軽屋敷で盂蘭盆会の趣向として二間四方の大灯籠を運行した[4]

1682年(天保2年) - 4代藩主・津軽信政の時代、弘前八幡宮祭礼の際、神輿の露払いとして山車が始めて運行した[5][注釈 1]

1720年(享保5年)旧暦7月6日(新暦8月9日) - 5代藩主・津軽信寿報恩寺(新寺町)で「眠流」を高覧した[5]

1722年(享保7年)旧暦7月6日(新暦8月17日) - 5代藩主・津軽信寿が城下の織座で「祢ふた流」を高覧した。順番は1番=本町・親方町・鍛冶町、2番=茂森町、3番=土手町、4番=東長町・本(元)寺町、5番=和徳町、6番=紺屋町、7番=亀甲町・田茂木町、8番=荒町。紺屋町から春日町へと向かう流れで、信寿は夜五つ(20時)頃に帰った[5][注釈 2]

1727年(享保12年) - 覚書を記す。財政難につき「ねむた」仕組踊りの高覧を中止した。青森と鯵ヶ沢の両浜での祭礼も神輿だけとする旨を、弘前ならびに青森と鯵ヶ沢の町奉行と寺社奉行へ手紙で通達した[5]

1728年(享保13年)旧暦7月6日(新暦8月11日) - 覚書を記す。御家中の若者や家来が神社の門前境内などでお盆の風流踊りや豊作祈願、虫送り、雨乞いなどのために踊りをする場所や納涼する場所にて悪戯があり、先日も子供が持つ灯籠を切り落とすといった事件があったので、今後は取り押さえるのでしないように。今晩(旧暦7月6日)は弘前中の子供が「祢むた」流しをする夜なので、混乱無い様に大目付へ申し伝えた[5]

1738年(元文元年) - 6代藩主・津軽信著が弘前八幡宮祭礼で辰巳櫓(現・天守)で山車を高覧した[5]

1739年(元文4年)旧暦7月6日(新暦8月10日) - 町中子供「祢ふた」流しの時期ではあるが、礫を打ち投げ、木刀で打ちたてる様なことの無い様に、また口論もしないように町奉行へ伝達した[5]

1748年(延享5年)旧暦7月4日(新暦7月28日) - 町々で「祢ふた」流しが行われ、町内に大勢集まっているが、御家中入り混じって喧嘩口論しているようなので、このようなことが無い様に指示する。旧暦7月6日以外は「祢ふた」を硬く禁じる旨を町奉行へ指示した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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