弓長 起浩基本情報
国籍 日本
出身地大分県東国東郡国東町(現:国東市)
生年月日 (1967-07-05) 1967年7月5日(56歳)
身長
体重178 cm
88 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1991年 ドラフト3位
初出場1992年4月16日
最終出場2002年8月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
大分県立国東高等学校
亜細亜大学
熊谷組
阪神タイガース (1992 - 2002)
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弓長 起浩(ゆみなが たつひろ、1967年7月5日 - )は、大分県東国東郡国東町(現:国東市)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 国東高から亜細亜大学へ進学。大学ではプロでも同僚となる川尻哲郎や小池秀郎、高津臣吾が1年下、2年上に与田剛の投手陣であった。東都大学リーグで通算17試合に登板し3勝3敗。大学卒業後は、社会人野球の熊谷組に入社、入れ替わりでプロ入りした佐藤和弘とは大学から同じ経歴となった。1年目の東京スポニチ大会で優勝に貢献し、新人賞[1]。都市対抗野球は1年目に東芝府中の補強選手として登板、2年目は初戦で先発するも敗退[2]。 1991年のプロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから3位指名を受けて入団。当時の担当はスカウト菊地敏幸[3]。 1992年(1年目)から中継ぎ投手として積極的に起用され、守護神の田村離脱後はクローザーとしても起用されるなどフル回転し、チームトップの51試合に登板し、以降も中継ぎとして1990年代の阪神を支えた。 1995年に発生した阪神・淡路大震災では同僚の南牟礼豊蔵とともに被災地に出向き、炊き出しやゴミ捨てに入って被災者を助けた。この年と翌年は勤続疲労から年間通して一軍にはいられなかったが、1997年には自己最多の59試合に登板。 1998年には57試合に登板し、防御率1.69、セ・リーグの最多登板を達成した。 2002年シーズンオフに戦力外通告を受け、そのまま現役を引退。一軍登板全試合がリリーフによるものである。 鳥取県でスポーツトレーナーとしての勉強を始めた様子が山陰の地方紙で伝えられ、イチロー、大塚晶則、山本昌なども通っている鳥取のスポーツジムに勤務していた。 2013年に広島県広島市安芸区にて「弓長起浩整体院」を開業。広島東洋カープの若手選手なども来院している。 2016年の学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となった[4]。 年
来歴・人物
プロ入り前
プロ入り後
引退後
詳細情報
年度別投手成績
度球
団登
板先
発完
投完
封無
四
球勝
利敗
戦セ
h
ブホ
h
ル
ド勝
率打
者投
球
回被
安
打被
本
塁
打与
四
球敬
遠与
死
球奪
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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