弓道
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この項目では、現代武道としての弓道について説明しています。古武道の弓術については「弓術」をご覧ください。

弓道きゅうどう

使用武器和弓・?・弦など
発生国 日本
源流弓術
流派日置流・小笠原流・本多流・大和流など多数(流派
主要技術射法八節
公式サイト ⇒全日本弓道連盟
国際弓道連盟 (IKYF)
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弓道(きゅうどう)は、和弓を射て、に中(あ)てる一連の所作を通し、心身の鍛練をする日本武道である。古武道弓術を基とし、現在ではスポーツ体育(学校教育)の面も持ち合わせている。
概要
組織
全日本弓道連盟
1949年設立。全国規模の組織であり、日本オリンピック委員会日本体育協会日本武道協議会に加盟している。都道府県ごとの47地方連盟が加盟している。全国規模の大会や審査(段級位及び錬士等の称号)を開催している。
国際弓道連盟
2006年、弓道の国際組織として全日本弓道連盟を中心に結成された。
全日本学生弓道連盟
1930年創立。大学生の組織で、全国の大学短期大学の弓道部のほとんどが加盟している。全日本弓道連盟からは独立した組織であり、試合規則も独自に定めている。
全国高等学校体育連盟弓道専門部
高校弓道を全日本弓道連盟と連携しつつ統括している。

その他、教職員連盟・実業団連盟などの職域組織、流派組織などが存在する。流派組織の規模の大きなものとして、一般財団法人本多流生弓会(本多流)、小笠原流同門会、浦上同門会(日置流印西派)などがある。(#流派参照)
競技人口

令和3年度の全日本弓道連盟の各地方連盟への登録人口は、約13万6,000人である[1]。男女比はほぼ等しく、年齢層では高校生が約6万9,000人(全体の51%)、一般が約4万2,000人(31%)、中学生が約1万2,000人(9%)、大学生が約1万3,000人(10%)である。ただ、全弓連への登録は全弓連関連の審査や試合に参加するのでなければ必須ではない。

各地の弓道連盟(地連)の登録人口をもとに都道府県別の競技人口を見ると、上位5位は愛知県、東京都(3地区連盟の合計)、神奈川県、福岡県、埼玉県、下位5県は下位から和歌山県、沖縄県、秋田県、島根県、鳥取県である。中学生登録人口は地域により大きなばらつきがあり、栃木県、愛知、鹿児島県各地連の登録者が1,000人を超えるのに対し、登録者数人から数十人の地連も多い。

高校生では、高体連の加盟登録状況(令和4年度)では約6万5,000人で、少子化傾向のなかにあっても近年の競技者数は6万人台を維持しており、男子・女子ともに武道では最も競技者が多い[2]。ただ実施校数は約2,000校であり多くはない。普及の地域差は大きく、愛知県では半数の高校に弓道部があるが、大阪府では10%前後である[2]
流派弓術・弓道の流派については弓術#流派を参照

現在でも小笠原流日置流本多流大和流、竹林流など様々な流派が存在し活動しているものの、大多数の弓道家は流派には所属せず、全日本弓道連盟の定めた射法(#射法八節)を学んでいる。流派に所属しながら全日本弓道連盟にも所属している場合もあり、多くの流派組織は連盟と対立してはいない。

流派の系統は今日的な用語で「礼射系」・「武射系」と分類されている。礼射系は儀礼儀式的な要素が加味されつつ発展した射の系統をいうが、事実上小笠原流系統をさす。武射系は戦場での実利[注釈 1]を重視して発展してきた射の系統をいい、事実上日置流系統をさす。本多流は、三十三間堂通し矢を得意とした日置流の堂射系統が母体で、本来は礼射系で行っていた正面打起しを取り入れた、武射系の流派である。
海外普及

弓道は『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著、1948年)などの著作で精神と礼節を重んじる面が取り上げられたことなどから外国人の関心を惹き、オリンピック種目でないにもかかわらず欧米各国中心に競技団体が設立され愛好されている。ただ、最も盛んなドイツでもドイツ弓道連盟登録者数は約1100人、他国連盟は多くても数百人である。2006年5月2日、弓道の普及と振興などを図るため国際弓道連盟が創設された。
歴史「弓術#歴史」も参照
明治・大正彩色美津朝 弓はじめ (1787年)日本の弓術(1878年)

武芸の一つ(武芸十八般の一つでもある)である弓術は、幕末から明治になり、それまでの江戸時代の制度が崩壊し、軍隊に西洋の最新兵器が導入されるという時代の流れに伴い、大きく変遷を強いられた。幕末の1862年文久2年)、幕府において講武所の稽古科目から弓術が除外され、弓術の上覧も廃止された[3]。続く1867年慶応3年)の大政奉還により伝統的な弓術文化は幕藩体制武家社会の崩壊と共に大きな衰退を余儀なくされた。1871年(明治4年)には廃藩置県により各地方や藩で教育されていた武術教育も姿を消し、弓術に限らず武術全般で実用性が見いだされなくなり、武術衰退に拍車をかけた。明治維新以前は、弓をひくことに制限が存在したが、維新による緩和を受けて、維新後は一般人でも弓を引く者が増えるようになり、急速に一般に普及し、遊戯化・娯楽化も進んだ。

他方で既に遊興の道具としての弓矢は民衆の間でも存在しており、盛り場での賭弓場が維新後の都市部で大流行した。賭弓場の多くは風俗営業であり、明治政府から規制を加えられるほど盛況化するなど、明治初期には一般的に弓といえば賭弓場を連想するほどに弓射文化は衰退していった。このような世相に煽られ公的な弓術道場が姿を消していく中、私設弓術道場を開くなど弓術古来の伝統を正しく引き継ごうとする真摯な弓術家[注釈 2]の活動により、日本弓道の命脈・伝統文化は保たれていった。

明治中期に入ると初等教育の開始や徴兵制度の徹底、日清戦争などでの勝利などを背景に、武術を再認識する機運が高まり始めた。後に団体や国策により武術が利用されはじめ、国民は弓道を含めた各種武道の再認識・尊重をするようになった。このような社会風潮を受け、1895年(明治28年)、京都在住の有識者により各種武術を統括する団体として大日本武徳会が設立され、京都の平安神宮境内に建設された武徳殿を本部とした。弓術をはじめとする各武術は、技術を目的とした武術は、心の涵養を目的とした武道として改められ、1919年(大正8年)、武術専門学校を武道専門学校と改称、時を同じくして弓術も「弓道」と改称された。反面、遊興的に『中りさえすれば良い』とした衰退期の反動から、『射型さえ良ければ中らなくても良い』とする過度な精神や礼節を重んじる気風が広まった側面もあった。これにより庶民への更なる普及もなされ、弓道への関心がより強まっていった。

また、大正から昭和初期にかけて、本多利実とその弟子達によって行われていた正面打起しの射法が大流行[注釈 3]した。後に利実の弟子達はこの射法をもって本多流を称した。
昭和初期・終戦

大日本武徳会は事業のひとつとして各武道のの統一を目指し、剣道では「大日本帝国剣道形[注釈 4]」、柔道は「大日本武徳会柔術形[注釈 5]」などが制定され、弓道もまた射型統一を行うことになった。1933年(昭和8年)5月に開催された全国範士教士会からの要請を受け、同年9月、当時の大日本武徳会会長鈴木莊六によって全国から招集された著名弓道家[注釈 6]により「弓道形調査委員会」を構成。


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