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ゆげ あきこ
弓削 昭子開発経済学の研究者
弓削昭子(左)。右は阿部俊子。2013年2月。
生年月日 (1953-07-15) 1953年7月15日(70歳)
学歴ニューヨーク大学大学院経済学研究科開発経済学 博士前期修了
コロンビア大学バーナード・カレッジ
弓削 昭子(ゆげ あきこ、1953年7月15日 - )は、日本の大学教授で、元国連職員。元国連開発計画(UNDP)駐日代表・総裁特別顧問。法政大学大学院教授政治学研究科教授[1]。特定非営利活動法人・国際ボランティア学生協会 (IVUSA) 特別顧問[2]。外務省開発協力適正会議・座長(2023年時点)[3]。
2006年6月、「ニューズウィーク」誌より、「世界が認めた日本人女性100人」の一人に選ばれている。 1975年5月、コロンビア大学バーナード・カレッジ教養学部卒業。UNDP勤務と並行して、ニューヨーク大学大学院に進学、マイケル・トダロ 大学卒業後、日本に帰国。当時、修士号を要件としていなかったJPOに応募し、1976年国連開発計画 (UNDP) から国際公務員としてのキャリアをスタートさせる。同機関のタイ、バンコク事務所で常駐副代表補佐を務めた。まもなく、日本政府にフィールド・レベルでの仕事を希望し、JPO期間中の1997年に国連人口基金 (UNFPA) に異動。同機関のタイ、バンコク事務所、代表補佐を務める。 JPOが終わった1978年、国連開発計画本部のアジア太平洋局からのオファーがあり、国連開発計画(UNDP)ニューヨーク本部、アジア太平洋局、プログラム支援部、プログラム・オフィサーを務める。同時に、ニューヨーク大学大学院に入学し、修士号を取得。1980年から3年間、国連開発計画ニューヨーク本部、アジア太平洋局、東アジア部、中国・フィリピン担当エリア・オフィサーを務める。 1983年、夫とともに日本に帰国、国際公務員を休職する。同年12月から1986年6月まで、社団法人海外コンサルティング企業協会 (ECFA) のプロジェクト研究員。 同年7月より財団法人工業開発研究所
来歴
学歴
国際公務員としてのキャリア
フリージャーナリストとなった夫とともに、1988年からバンコクへ行き、国連開発計画タイ、バンコク事務所常駐代表補佐を務める。1990年から国連開発計画インドネシア、ジャカルタ事務所常駐副代表、1994年から1999年には、国連開発計画ブータン王国、ティンプー事務所常駐代表、国連常駐調整官を務める。キャリアの中では、ブータン王国で最も長いフィールド経験を持つ。
1999年より、夫の親の世話を機にして、日本に帰国。当時新設されたフェリス女学院大学国際交流学部で教授を務める。著名な教え子として、特定非営利活動法人かものはしプロジェクトの創立者の一人である村田早耶香がいる。3年後、国連開発計画の駐日事務所の代表のポストが空いたのでアプライ。2002年から2006年、国連開発計画駐日事務所、駐日代表を務める。
その後、当時のコフィー・アナン国際連合事務総長によって、女性としては初の国連開発計画ニューヨーク本部、管理局長に任命され、2012年まで務める。最終的には、ヘレン・クラーク総裁の総裁特別顧問、駐日代表として、国連開発計画駐日事務所に戻り、TICADVを経験、2013年までそのポストを務めた。 国際連合退任後、特任教授となった長谷川祐弘の後任として、2014年4月から法政大学法学部国際政治学科教授、同大学大学院政治学研究科教授 として人材育成にあたっている。また、模擬国連四ツ谷研究会顧問のほか、日本政府の有識者会議や国際会議の委員として、政策提言やアドバイザーなども務めている。 国連機構、ODA、国連の開発アジェンダ(計画、日程、予定、実行されるべき課題事項)ジェンダー、開発教育、平和構築人材育成に造詣が深い。学術的には、平和活動の主要な分野である平和維持活動と平和構築活動 父親がスペイン語話者の外交官であったことから、スペインで7月15日に誕生している。その後、東京都小金井市に住んでいたが、幼稚園から小学校3年までメキシコの現地学校で過ごす。その後、東京都北区の王子第一小学校で日本語を学びながら、桜蔭中学校に合格。
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