式守伊之助_(41代)
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38代木村庄之助
Kimura Shonosuke XXXVIII

住吉大社での横綱土俵入りにて
(2017年3月4日、式守勘太夫時代)
基礎情報
行司名木村秀樹 → 木村英樹 → 木村和一郎 → 11代式守勘太夫 → 41代式守伊之助 → 38代木村庄之助
本名いまおか ひでき
 今岡 英樹
愛称ズッコケ行司、ワイチロス、英樹さん
生年月日 (1959-09-22) 1959年9月22日(64歳)
出身 日本島根県出雲市
所属部屋高田川部屋
データ
現在の階級立行司(木村庄之助)
初土俵1975年5月
幕内格2005年9月
三役格2013年5月
立行司2019年1月
備考
2023年12月25日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

38代 木村 庄之助(さんじゅうはちだい きむら しょうのすけ、1959年9月22日 - )は、大相撲立行司高田川部屋所属。本名は今岡 英樹(いまおか ひでき)。
人物

島根県出雲市出身。少年時代は高砂部屋の元大関前の山(8代高田川)のファンで、それが相撲界入りのきっかけとなった。もっとも、最初から行司志望だった訳ではなく(身長が160cmで力士規定に満たないため)、どうしても親方に裏方でもいいから弟子入りしたいと自己PRの手紙を書いているうち、最後の一文に「行司になりたい」と書いてしまったという[1]

1975年5月場所、木村秀樹の名で初土俵40代式守伊之助の1場所後輩に当たる。40代伊之助より上の世代とは年齢が離れている(伊之助より1枚上だった4代木村正直(2013年1月死去)とは6歳差)ということもあり、彼とは付き合いが深いようで、新弟子時代は何度も相撲を取って勝負していたという。

1975年11月場所、木村英樹に改名。1977年1月場所、序二段格昇進。1978年11月場所、三段目格昇進。1984年1月場所、幕下格昇進。1991年11月場所、木村和一郎に改名。1982年1月場所、十両格昇進。2005年9月場所、幕内格昇進。

2012年1月場所に、木村和一郎から11代式守勘太夫を襲名[注釈 1]

同年5月場所千秋楽、大相撲史上初となる平幕同士の優勝決定戦となった前頭4枚目栃煌山?同7枚目旭天鵬戦(旭天鵬が勝ち初優勝)を、幕内格筆頭行司であった勘太夫が裁いた[注釈 2]

2013年3月17日の理事会において、4月25日付で三役格に昇進することが決まった[3]。これは同年1月場所後に4代正直が亡くなったうえ、5月場所後に立行司36代木村庄之助が定年を迎えることによる。

番付序列と年齢の関係上、序列上位の立行司である40代伊之助が11代勘太夫より誕生日が3か月遅いため、11代勘太夫は立行司となり定年となる65歳まで務めあげたとしても立行司の最高位である木村庄之助を襲名することなく停年退職するものと見込まれていたが、40代伊之助が2017年冬巡業最終日に不祥事を起こしたことにより、その責任を取る形で2018年の1月場所から5月場所まで出場停止・謹慎した上、5月場所終了後の同月28日付で辞職願が受理され、同月末日付で退職した[4]

先代伊之助退職後も立行司昇格は見送られていた[注釈 3]が、2018年9月27日の理事会で、2019年1月場所番付発表日の12月25日付で立行司に昇格し、41代式守伊之助を襲名することが決定した[5]。定年まで務め上げると約6年近く行司の最高位を務めることになる。2023年9月28日の理事会で、2024年1月場所番付発表日の12月25日付の人事で38代木村庄之助を襲名することが決定した[6][7]

立行司に昇格後も、毎日のウォーキングにスクワット100回など、行司として取組の細部をよく見える一番良い位置に、また土俵上での攻防に巻き込まれずに素早く移動できるよう、年齢に負けない鍛錬を重ねている[8]
エピソード

十両格昇進時から20年間(1992年1月場所 - 2011年11月場所)名乗った行司名は木村和一郎(きむら わいちろう)であったが、その和一郎の名は前の山(8代高田川)の本名「和一」からとったものである。

部屋の若い力士の
四股名をつけることが得意であるという。中でも剣晃の四股名は入門当時不摂生で顔色が悪かったことから「健康」を願って木村英樹(当時)自身が名づけたが、その剣晃は小結まで進むも30歳で病死した。

長男の凜太郎は、高田川部屋所属の力士・前乃勝だったが、2011年3月下旬、稽古場でクモ膜下出血で倒れ、5月の技量審査場所から休場。土俵復帰を目指していたが、2012年6月、ドクターストップが掛かり、19歳で引退した。部屋での断髪式では自ら介添え役の行司を務める一方、娘と共に餞のハサミを入れた。引退後は父の故郷である島根県出雲市で画家として活動している[9]

三役格時代に二度水入りの取り組みを裁いたことがある(2015年1月場所14日目の東前頭二枚目照ノ富士 - 西関脇逸ノ城と同年3月場所13日目の東関脇照ノ富士 - 西前頭筆頭逸ノ城)。

2015年3月場所限りで37代木村庄之助が定年退職し、立行司が40代式守伊之助1人となったため、同年5月場所より現在に至るまで1日2番裁く取組のうち1番が横綱の取組となること(場所終盤で横綱同士の取組があるときは該当しない)、各場所千秋楽の「これより三役」の触れとその直後の1番を行っている[注釈 4]

2017年1月場所後に、大関・稀勢の里が横綱に昇進したため、次期41代式守伊之助が誕生するまでの間、場所終盤までの裁く2番は横綱戦となる(19年前の4横綱時代、立行司は2人いたが、立行司が裁く取組は3番のため、場所終盤前までは、三役格が1番裁いた。当時裁いた行司は8代式守勘太夫[注釈 5])。

2019年1月場所8日目、第125代天皇明仁が在位中としては最後となる天覧相撲の結びの一番の触れで、歴代の立行司は「この相撲一番にて、結び」と言ってきたが、41代伊之助は「結びにござります」と触れあげた。その理由について、(陛下に対する敬語として)「結び」よりも「結びにござります」のほうがより丁寧な印象があるから、と取組前のNHKの取材に答えている。

2017年の九州北部豪雨で被災していた大行司駅2019年に再建されるのに際して、駅名にちなんで伊之助が看板の文字を書いている[10]


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