弁財天
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「弁天」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「弁天 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
弁才天立像(8臂像)
京都府木津川市浄瑠璃寺伝来(鎌倉時代 吉祥天像厨子絵)

弁才天(べんざいてん、: Sarasvat?[1][2]: Sarassat?[2])は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。
概要弁才天坐像(妙音天)
岩手県盛岡市・松園寺

日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インド中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多い。「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。古くから弁才天を祭っていた社では明治初頭の神仏分離以降は、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い。瀬織津姫が弁才天として祀られる例もあるが少ない。

金光明最勝王経』における弁才天は、金光明経を人に説いたり、他者から聞く者に智慧、長寿、富を与えるとされる[1]。弁天(べんてん)または弁天さんとも言われ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。
表記

「サラスヴァティー」の漢訳は「弁才天」あるいは「辯才天」であるが、日本では財宝神としての側面に信仰が集まり、「弁財天」や「辨財天」と表記する場合も多い[1]
像容サラスヴァティー

原語の「サラスヴァティー」は、インドで最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』に現れる聖なる河とその化身の名である。の女神であるが、次第に芸術・学問などの知を司る女神と見做されるようになった。ヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻である(元々はヴィシュヌの妻であったという説もある)。

他方で弁才天は、音楽神、福徳神、学芸神の性格に加え、戦勝神の性格も持つものがあり、像容は、2臂像と8臂像の2つに大別される。

2臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、『大日経』では、妙音天、美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。ただし、胎蔵曼荼羅中に見える2臂像は、後世日本で広く信仰された天女形ではなく、菩薩形の像である。

8臂像は、5世紀の中国の五胡十六国時代に中インドから新疆へ赴いた曇無讖が、仏教経典スヴァルナ・プラバーサ・スートラを漢訳した『金光明最勝王経』「大弁才天女品(ほん)」の所説によるものである。8本の手には、(ほこ)、長杵鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持つと説かれるが、その全てが武器に類するものである。同経典では弁才・知恵の神としての性格が多く説かれているが、その像容は鎮護国家の戦神としての姿が強調されている。
日本における信仰と造像

ヒンズー教におけるサラスヴァティーは川の名前であったものが女神となったもので、手に本や数珠、縄、ヴィーナ(琵琶)、水瓶などを持ち、叡智や学問、音楽の神とされるが、漢訳経典『 金光明最勝王艇』巻第七「大弁才天女品第十五」では、弁才天は「金光明最勝王経」の護法神として登場し、眷属(従者)を率いて天の伎楽を行なって金光明最勝王経を擁護し、諸病苦等を除く役割を果たすとある[3]。 弁才天の陀羅尼を誦せば所願が成就し、財を求めれば多くの財を得られるともあり、これがのちに弁才天が福徳の仏とみなされる根拠となり、川辺に居住するとあったことから、川や湖、池などに祀られるようになった[3]。また、8本の手に弓・箭・刀・?(さく)・斧・長杵・鉄輪・羅索といった武器を持つとあることから戦闘神としての機能もあり、これは日本の『別尊雑記』(12世紀心覚による図像集)や『白宝抄』(鎌倉時代の天台系図像集)にも描かれ、これが宇賀神習合した竹生島の八臂(8本腕)の弁才天坐像や江島神社の八臂の木造弁才天坐像などに繋がる[3]

8世紀の僧一行による『大日経疏』(大日経の解説書)では、サラスヴァティーのことを妙音楽天とも弁才天とも言う、とあり、これをうけて、鎌倉時代初期の曼荼羅転写本『胎蔵旧図様』(胎蔵曼荼羅図)や『現図曼荼羅』(両界曼荼羅図)では2本の手で琵琶を弾く二腎像として描かれている[3]

日本ではこれらの経典に基づいて、8本腕の戦闘神的な弁才天と、2本腕の琵琶を持つ弁才天とが形作られ、互いに影響関係を持ちながら変容し、鎌倉時代に宇賀神との習合によって大きな変化を遂げていった[3]
造像木造弁才天坐像(1266年(文永3年)作、重要文化財、鶴岡八幡宮所蔵)。像本体は裸に腰布1枚をまとった姿を彫りだしたもので、その上に衣服を着せる様式である[4]

日本での弁才天信仰は既に奈良時代に始まっており、東大寺法華堂(三月堂)安置の8臂の立像(塑像)は、破損甚大ながら、日本最古の尊像として貴重である。その後、平安時代には弁才天の作例はほとんど知られず、鎌倉時代の作例もごく少数である。

京都市・白雲神社の弁才天像(2臂の坐像)は、胎蔵曼荼羅に見えるのと同じく菩薩形で、琵琶を演奏する形の珍しい像である。この像は琵琶の名手として知られた太政大臣藤原師長が信仰していた像と言われ、様式的にも鎌倉時代初期のもので、日本における2臂弁才天の最古例と見なされている。同時代の作例としては他に大阪府・高貴寺像(2臂坐像)や、文永3年(1266年)の銘がある鎌倉市・鶴岡八幡宮像(2臂坐像)が知られる。近世以降の作例は、8臂の坐像、2臂の琵琶弾奏像共に多く見られる。
宇賀弁才天弁才天坐像(宇賀弁才天)
滋賀県 竹生島・宝厳寺(1565年 浅井久政奉納)弁才天坐像(個人蔵、鎌倉時代)。とぐろを巻いた蛇と老人の頭を持つ宇賀神を頭上に頂く。弁財五部経にこうした姿が説かれる

中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも言われる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身はとされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず[注 1]、それが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである。

宇賀弁才天は8臂像の作例が多く、その持物は『金光明経』の8臂弁才天が全て武器であるのに対し、新たに「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなっている[注 2]

弁才天には「十五童子」が眷属として従うが、これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれ、平安風童子の角髪(みずら)に結った姿をとる。十六童子とされる場合もある。[5]

名称別称本地功徳
1印鑰童子麝香童子釈迦如来悟りと解脱へ導く神
2官帯童子赤音童子普賢菩薩法を守る神
3筆硯童子香精童子金剛手菩薩学問成就の神
4金財童子召請童子薬師如来金銀財宝・商売繁盛の神
5稲籾童子大神童子文殊菩薩五穀豊穣の神
6計升童子悪女童子地蔵菩薩経理・経営の神
7飯櫃童子質月童子栴檀香仏食物授与の神
8衣裳童子除哂童子摩利支天着衣に不自由しない神


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