建艦競争
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2017年4月)

建艦競争(けんかんきょうそう、英語: Naval arms race)は、二国あるいは多国間における軍拡競争の一形態で、軍艦を中心とした海軍力整備を互いに競い合う状況を示す言葉である。

軍拡競争は、既に存在するスーパーパワーに新興勢力が挑戦するか、既存のパワーバランスが新装備の導入等によって一時的に崩れた場合に再構築が図られる、等のパターンにより生起するが、建艦競争もこの例に漏れない。他と比べて特徴的なのは、海軍力の象徴である主力艦の性能や保有量の把握が比較的容易であり、重要な指標となりやすいことである[注 1]

また、特に潜水艦や航空戦力以前の、自己の存在をほぼ掩蔽できない状況で命中率の低い公算射撃によっていた水上艦の戦闘では、陸戦の無限に存在する遮蔽物を利用した奇襲・防御や、航空戦の機動性による第一撃の決定的優位といった要素がないため、兵器質量差を運用で埋められる余地が乏しく、仮想敵の新たな艦に対抗する艦が強く必要とされ、対立関係のある限り自動的に建艦競争が続くという構造を生じた。わけても水上戦闘艦の頂点であり同じく戦艦でしか撃破しえないと考えられていた時代の戦艦に顕著である。

建艦競争の継続は、他の軍拡と同様に関係国間での緊張あるいは衝突に至る対立を生む[注 2]。また、軍艦の整備には長い時間と膨大なコストを要することから国家財政上の大きな負担になる。このため、緊張緩和と軍事費削減を目的とした軍縮に至る結末もまま見られる一方、実際に戦争に至ってしまったと評される事例もある。
建艦競争の事例

代表的な建艦競争の事例としては、下記のものが挙げられる。

第一次世界大戦に至る欧州、特に英独間の建艦競争(en:Anglo-German naval arms race)

二十世紀初頭、南米ABC三国間の建艦競争(en:South American dreadnought race)

海軍休日以降の、特に極東地域における日米英間の建艦競争

冷戦期、特にキューバ危機以降の米ソ間の建艦競争

その他にも小規模・短期間のものを含めた建艦競争は、古今東西数多く生起している。
二国標準主義

二国標準主義(The Two-Power Standard)とは、19世紀末におけるイギリス海軍の整備方針で、アルマダの海戦以降急成長し、ナポレオン戦争期に絶対的優位を確立した海軍力の具体的な数値目標として確立した概念である。すでに圧倒的優勢な勢力が更なる絶対的優位を求めて軍拡を行うというかなり特殊な事例であるが、軍備計画史上海軍力拡張を明確に謳った重要な概念であることからここに述べる。

この言葉は1889年の海軍防衛条例(Naval Defence Act)に初めて銘記される。その概要は「世界第二位のフランス海軍と同第三位のロシア海軍の戦力を合したものと同等以上の海軍力を整備する」というもので、同年の国防予算には前弩級戦艦の概念を確立したことで有名なロイアル・サブリン級8隻[注 3]の建造費が一挙に計上され、それまでの単艦もしくは少数の同型艦を整備する方針から大きく転換したものとなった。

以後、イギリスの海軍力は従来に増して列強を圧倒するものとなる[注 4]。この政策は新たな競争相手としてドイツ海軍が台頭してくるまで、20年にわたり維持された[注 5]
日露戦争に至る日露間の建艦競争連合艦隊旗艦三笠(1905年)

日本日清戦争の勝利によりから遼東半島の割譲を受けたが、1895年三国干渉により清に返還した。やがて同地はロシア帝国租借するところとなり、旅順を根拠地としてロシア太平洋艦隊は急速な増強を遂げ、日本の安全保障上重大な脅威として顕在化してきた。

同国の脅威に対抗するため、日本は日英同盟を締結するとともに、清から得た賠償金の総額にほぼ匹敵する巨額の軍事費を投入して対露戦備を構築した。その過程において六六艦隊計画に基づく第一期・第二期海軍拡張計画が成立し、日本海軍は当時最新の戦艦4隻、装甲巡洋艦6隻を建造するなど、世界第四位の大艦隊に急成長した。

一方でロシア海軍も最新鋭艦を優先的に太平洋艦隊に配備し、日露戦争開戦時には戦艦7隻を中心として日本連合艦隊とほぼ互角の戦力を保有するに至っていた。

一連の開戦に至る両国の推移は典型的な建艦競争であり、開戦直前においても日本は第三期拡張計画成立や装甲巡洋艦二隻(「春日」「日進」)の緊急調達など増強を続け、ロシアもまた最新のボロジノ級戦艦回航を計画していた。同戦争において海軍力の推移は開戦期を決定する重要な要素であり、日本は太平洋における両国の戦力比が最良となる機会を捉えて開戦を決断した。

参考:日清戦争前の日本海軍の整備推移
日本より一足早く軍拡を開始した清国は東洋最大の装甲艦定遠級戦艦を中核とした強力な海軍を整備し、国力に劣る日本は対抗戦力の整備に腐心することになる。少ない国力で「定遠」「鎮遠」両艦に対抗する戦力を模索した日本は、戦艦の建造がなかなか実現しない中で同レベルの巨砲を搭載したより小型の軍艦を検討し、「三景艦」で実現する。一応の対抗手段を保有した日本だが、やはり正面から対抗できる戦力を欲し、改めて戦艦の建造を計画する。建造費の捻出に苦慮する国情を憂えた明治天皇建艦詔勅にて遂に実現した「富士」「八島」は日清戦争には間に合わなかったが、日露戦争において連合艦隊の重要な一翼を担うことになる。
第一次世界大戦に至る欧州、特に英独間の建艦競争「英独建艦競争(英語版)」も参照ティルピッツ

欧州の新興勢力であるドイツ帝国は、皇帝ヴィルヘルム2世ティルピッツ海相の指導下にて「ドイツの将来は海上にあり」のスローガンの下、海軍力の建設に邁進した。

最初に公布された第一次艦隊法1898年)においては戦艦19隻(艦齢25年)を中心とした比較的穏当なものであったが、1900年の第二次艦隊法では明確にイギリス海上権への挑戦を宣し、「彼が我と戦えば、我が負けても彼も回復困難な損耗を受ける」というリスク理論を提唱して戦艦戦力を倍の38隻に増強する大軍拡を開始した。以後1908年1912年と改訂を繰り返し、総戦力は戦艦41隻(艦齢20年)と大巡洋艦20隻を中核とした、イギリス本国艦隊を上回る程の規模にまで成長せんとした。英戦艦ドレッドノート

挑戦を受ける立場のイギリスも建艦を拡大した。その渦中、1906年に就役した「ドレッドノート」が軍艦史上極めて重要な意義を持ち、弩級戦艦時代を開幕させた。この艦は建艦競争にも重大な影響をもたらした。「ドレッドノート」以前と以後で一線を画するほどの性能差は、それまで保有していた戦艦群を(建造中のものまで含めて)一挙に陳腐化させた。つまり列強各国は、「ドレッドノート」により海軍力を事実上リセットされたも同然の状態となった。特にドイツはこれを好機として弩級戦艦の建造に邁進し、急速に戦力を拡充していった。一方のイギリスもドイツ大洋艦隊への優位を再び確立するべく、イギリス連邦諸国の寄付金を募ってまで建造費を確保した。

技術の発達は戦艦の性能を急速に向上させ、程なく超弩級戦艦さらには高速戦艦が登場するようになった。


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