平 滋子
第80代天皇母
皇太后仁安3年(1168年)3月20日
建春門院
院号宣下嘉応元年(1169年)4月12日
誕生康治元年(1142年)
崩御安元2年7月8日(1176年8月14日)
平安京
諱滋子(じし、しげこ)
別称少弁局、小弁
氏族平氏(高棟流)
父親平時信
母親藤原祐子
配偶者後白河天皇
入内応保元年(1161年)4月以前
子女高倉天皇
身位(上皇女房)→女御→皇太后
立后前位階従三位
宮廷女房建春門院中納言
テンプレートを表示
平 滋子(たいら の じし/しげこ、1142年〈康治元年〉- 1176年8月14日〈安元2年7月8日〉)は、日本の第77代天皇・後白河天皇の女御、皇太后。女院。高倉天皇の母(国母)。院号は建春門院(けんしゅんもんいん)。
後白河天皇の譲位後の妃。桓武平氏高棟流、いわゆる堂上平氏の生まれ。父は兵部権大輔・平時信(贈左大臣)、母は中納言・藤原顕頼の娘、祐子(すけこ)。兄弟に時忠・親宗、姉妹に二位尼時子(平清盛継室)・冷泉局(建春門院女房)・清子(宗盛の室)・坊門殿(重盛の室、維盛母の可能性あり)・藤原親隆の室(権少僧都・全真の母)・帥局(建礼門院女房)がいる。 康治元年(1142年)に生まれ、幼少時は若狭局に養育される[注釈 1]。父は鳥羽法皇の近臣であり、滋子も法皇の娘・上西門院(後白河上皇の同母姉)に女房として仕えた。兄・時忠の官職が右少弁であったことから、候名を小弁(こべん)と称した。その美貌と聡明さが後白河院の目に留まり、寵愛を受けるようになる。応保元年(1161年)4月、院御所・法住寺殿が完成すると滋子は、後白河院や皇后・忻子と共に入御して「東の御方」と呼ばれるようになる[2]。身分の低さのために女御にはなれなかったが、後白河院の寵愛の深さは他の妃と比較にならなかった。 9月3日、滋子は後白河院の第七皇子(憲仁)を出産する[3]。後白河院は35歳、滋子は20歳だった。この頃、政治の主導権を巡って後白河院と二条天皇は激しく対立していたため、その出生には「世上嗷々の説」、つまり不満や批判があったという[4]。同月には平時忠らによる憲仁立太子の陰謀が発覚したため、二条帝はただちに平時忠・平教盛・藤原成親・坊門信隆らを解官して、後白河院の政治介入を停止する措置をとった。翌年、平時忠・源資賢が二条帝を呪詛した罪で配流される。この事件により、憲仁の立太子のみならず親王宣下さえも絶望的なものとなった。しかし二条帝の乳母が滋子の姉・時子であったことが幸いして、滋子自身に直接の圧迫が加えられることはなかった。 永万元年(1165年)7月、二条帝が崩御したことで後白河院は政治活動を再開し、12月には念願だった憲仁への親王宣下を行った。翌仁安元年(1166年)、六条天皇を後見していた摂政・近衛基実が死去すると平清盛を自派に引き入れて、10月10日、憲仁親王の立太子を実現させた。儀式は東三条院にて挙行され、滋子は生母として従三位に叙せられた。翌年正月には女御となり、家司と職事には教盛・宗盛・知盛・信範ら平氏一門が任じられた。 後白河院は9月に、滋子を伴って熊野参詣を行った。これは、後白河院の母・待賢門院が白河法皇・鳥羽上皇に従って参詣した先例にならったものだった。滋子の熊野参詣はこの時を含めて、記録上4回確認できる。『平家物語』(長門本)には、熊野本宮で滋子が「胡飲酒」を舞っていたところに突然大雨が降ったが、いささかもたじろがず舞を続けたという逸話がみえる。滋子の信念の強さ、気丈な性格を表したものといえる。実際に滋子は神仏に対する信仰が厚く、特に日吉神社と平野神社には頻繁に参詣した。平野神社は平氏の祖・桓武天皇ゆかりの神社である。 仁安3年(1168年)2月、後白河院は当初の予定通りに六条天皇を譲位させ、憲仁親王が践祚した(高倉天皇)。3月14日、後白河院は皇太后・藤原呈子に九条院の女院号を与え、20日にはこれで空いた皇太后に滋子を立てた。皇太后宮大夫には、大納言・久我雅通、権大夫には右近衛中将・平宗盛、亮には藤原定隆が補された。6月、高倉帝は外祖父・平時信に正一位左大臣を、外祖母・藤原祐子に正一位を追贈した。8月、高倉帝は法住寺殿に行幸し、寝殿において滋子に拝礼した。以前、上西門院に仕えて同僚だった女房に「この御めでたさをはいかがおぼしめす(このめでたさをどう思われますか)」と尋ねられると、滋子は「さきの世の事なれば何とも覚えず(前世の行いによるものなので何とも思っていない)」と答えたという[5]。 嘉応元年(1169年)4月12日、滋子は女院に立てられ建春門院の院号を宣下される[注釈 2]。 院司は花山院忠雅・平時忠・平宗盛・平親宗・平時家など平氏一門とその縁戚が多く任じられた。特に太政大臣の忠雅が女院別当に補されたのは極めて異例のことだった。
生涯