建康(けんこう)は、中国の六朝の歴代の都であり、南京市の古称である。
三国時代の呉においては建業(けんぎょう)と呼ばれたが、西晋のときに愍帝(司馬?)の諱に触れることから、建康と改称された。建康を中心に六朝文化が栄え、とくに仏教の隆盛ぶりは「南朝四百八十寺」と讃えられた。
年譜
春秋時代、楚の武王が金陵を置いた。
紀元前210年、秦により秣陵県が置かれ、会稽郡に属した。
漢代の秣陵県は揚州丹陽郡に属した[1]。
211年、孫権が張紘の進言を容れて、治所を呉県から秣陵県に移した[2]。
212年、孫権が石頭城を築き、秣陵を建業と改めた[2]。
221年、孫権が鄂城(武昌)に遷都した[2]。
229年、孫権が建業に遷都した[2]。
247年、太初宮が作られ、翌年に完成した[2]。
255年、呉の孫亮が太廟を作った[3]。
265年、呉の孫晧が歩闡の進言に従い、武昌に遷都した[3]。
266年、孫晧が建業に還都した[3]。
267年、昭明宮(顕明宮)が建てられ、孫晧が居を移した[3]。
313年、建業の称を建康と改めた[4]。
317年、東晋の元帝が宗廟と社稷を建康に立てた[5]。
319年、新たに聴訟観が立てられた。
329年、蘇碩(蘇峻の子)が台城を攻撃し、太極東堂と秘閣が焼きつくされた[6]。建平園に宮殿が置かれた。
330年、新宮が造営され、初めて苑城が修繕された[6]。
332年、東晋の成帝が新宮に移った[6]。
378年、新宮が造営され、東晋の孝武帝が新宮に移った[7]。
391年、太廟が改築され、9月に新廟が完成した[7]。
396年、清暑殿が造営され、永安宮が作られた[7]。
404年、劉裕が桓玄の乱を討ち、建康を占領した。
414年、東府城が築かれた。
438年、新たに東宮が作られた。
443年、台城の東西に万春門と千秋門が設けられた[8]。
446年、楽遊苑の北に玄武湖が開かれ、華林園に景陽山が築かれた[8]。
454年、正光殿が立てられた[9]。
459年、玄武湖の北に上林苑が立てられた[9]。皇后蚕宮が西郊に立てられた。
461年、?闔門から朱雀門にいたる馳道が立てられた[9]。
462年、新たに大航門が作られた。覆舟山に凌室を置き、氷を収蔵した[9]。
465年、石頭城を長楽宮とし、東府城を未央宮とした。北邸を建章宮とし、南第を長陽宮とした[10]。
483年、青渓旧宮が築かれた[11]。
487年、新林苑が立てられた[11]。
501年、蕭衍が建康を占領した。
513年、南朝梁の武帝(蕭衍)の命により新たに太極殿が作られた[12]。