建康(けんこう)は、中国の六朝の歴代の都であり、南京市の古称である。
三国時代の呉においては建業(けんぎょう)と呼ばれたが、西晋のときに愍帝(司馬?)の諱に触れることから、建康と改称された。建康を中心に六朝文化が栄え、とくに仏教の隆盛ぶりは「南朝四百八十寺」と讃えられた。 隋が南朝陳を滅亡させた際に、削平と開墾された上、都市の発展で南京市の下に埋もれた。そのため、遺跡調査も容易でなく、場所や概要は長い年月不明である。また、開発に伴う破壊も考えられた。 広義の六朝建康城とは、宮城・都城・外郭の三重の城壁と壕を含み、さらに周囲には石頭城・東府城・西州城・丹陽郡城・白下城・冶城・越城などを代表とする衛星都市群を含んでいる。さらに、その間に広く分布している礼制・宗教・官街・市場・里坊・庭園などの各種の建物、および都市交通の命脈である道路や水路などがある[15]。 2012年3月20日、南京市文物保護単位に指定された。
年譜
春秋時代、楚の武王が金陵を置いた。
紀元前210年、秦により秣陵県が置かれ、会稽郡に属した。
漢代の秣陵県は揚州丹陽郡に属した[1]。
211年、孫権が張紘の進言を容れて、治所を呉県から秣陵県に移した[2]。
212年、孫権が石頭城を築き、秣陵を建業と改めた[2]。
221年、孫権が鄂城(武昌)に遷都した[2]。
229年、孫権が建業に遷都した[2]。
247年、太初宮が作られ、翌年に完成した[2]。
255年、呉の孫亮が太廟を作った[3]。
265年、呉の孫晧が歩闡の進言に従い、武昌に遷都した[3]。
266年、孫晧が建業に還都した[3]。
267年、昭明宮(顕明宮)が建てられ、孫晧が居を移した[3]。
313年、建業の称を建康と改めた[4]。
317年、東晋の元帝が宗廟と社稷を建康に立てた[5]。
319年、新たに聴訟観が立てられた。
329年、蘇碩(蘇峻の子)が台城を攻撃し、太極東堂と秘閣が焼きつくされた[6]。建平園に宮殿が置かれた。
330年、新宮が造営され、初めて苑城が修繕された[6]。
332年、東晋の成帝が新宮に移った[6]。
378年、新宮が造営され、東晋の孝武帝が新宮に移った[7]。
391年、太廟が改築され、9月に新廟が完成した[7]。
396年、清暑殿が造営され、永安宮が作られた[7]。
404年、劉裕が桓玄の乱を討ち、建康を占領した。
414年、東府城が築かれた。
438年、新たに東宮が作られた。
443年、台城の東西に万春門と千秋門が設けられた[8]。
446年、楽遊苑の北に玄武湖が開かれ、華林園に景陽山が築かれた[8]。
454年、正光殿が立てられた[9]。
459年、玄武湖の北に上林苑が立てられた[9]。皇后蚕宮が西郊に立てられた。
461年、?闔門から朱雀門にいたる馳道が立てられた[9]。
462年、新たに大航門が作られた。覆舟山に凌室を置き、氷を収蔵した[9]。
465年、石頭城を長楽宮とし、東府城を未央宮とした。北邸を建章宮とし、南第を長陽宮とした[10]。
483年、青渓旧宮が築かれた[11]。
487年、新林苑が立てられた[11]。
501年、蕭衍が建康を占領した。
513年、南朝梁の武帝(蕭衍)の命により新たに太極殿が作られた[12]。
548年、侯景が建康を包囲した、翌年に台城を陥落させた(侯景の乱)。
552年、王僧弁が建康を奪回し、侯景は逃亡した。このとき軍人の失火で太極殿や東西堂などが焼失した[13]。元帝は江陵に都を置いた。
554年、敬帝が建康で即位した。
558年、南朝陳の武帝の命により太極殿が再建された[14]。
589年、隋が南朝陳を滅ぼし、建康の台城は平地にされた。
建康周辺
石頭城
東府城(未央宮)
西州城(建?県治)
丹陽郡城
白石塁(白下城、琅邪城)
冶城
越城
玄武湖
燕雀湖
朱雀航
鍾山
秦淮河
六朝建康城
脚注^ 『漢書』巻28上 地理志上
^ a b c d e 『三国志』巻47 呉書2 呉主伝
^ a b c d 『三国志』巻48 呉書3 三嗣主伝
^ 『晋書』巻5 孝愍帝紀
^ 『晋書』巻6 元帝紀
^ a b c 『晋書』巻7 成帝紀