建川美次
[Wikipedia|▼Menu]

建川 美次
陸軍中将時代の建川美次
生誕1880年10月3日
日本 新潟県新潟市
死没 (1945-09-09) 1945年9月9日(64歳没)
日本 東京都目黒区駒場
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1901年 - 1936年
最終階級陸軍中将
墓所多磨霊園
テンプレートを表示

建川 美次(たてかわ よしつぐ、1880年明治13年)10月3日 - 1945年昭和20年)9月9日)は、日本陸軍軍人外交官。最終階級陸軍中将栄典勲一等功四級

新潟県出身。陸士13期、陸大21期。日露戦争時に騎兵科士官として奉天会戦の勝利に貢献する。参謀本部第二部長、参謀本部第一部長、第10師団長、第4師団長を経て、二・二六事件後に予備役編入され、松岡洋右外相の下で更迭された東郷茂徳に代わり駐ソビエト連邦大使に就任した。宇垣一成の側近であり、三月事件にも参加している。
経歴
生い立ち

新潟県新潟市で地方官吏・野崎美孝の三男として生まれ、同地方官吏・建川周平の養嗣子となる。高田中学校を経て旧制新潟中学校卒。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校第13期[1]卒業。見習士官を経て陸軍騎兵少尉任官。
日露戦争

1904年(明治37年)8月、日露戦争に出征。1905年(明治38年)1月、満州軍総司令官大山巌元帥陸軍大将の命により、騎兵の機動力を生かした建川挺進斥候隊(建川挺身斥候隊)の隊長として5名の部下を率い、ロシア帝国軍勢力地の奥深くまで挺進し1,200kmを走破、将校斥候に活躍。日露戦争の決戦である奉天会戦の勝利に貢献したその戦功により、1905年(明治38年)2月、第2軍司令官奥保鞏陸軍大将より感状を受け、『少年倶楽部』に連載された山中峯太郎の小説『敵中横断三百里』主人公のモデルとなる[2]

南方で兵役経験のある山本七平は、アメリカ機が投下する伝単の中で、建川が日露戦争中捕虜になったことがある、だから捕虜となるのは恥ずかしいことではない、と投降を求める文面のものがあったことを自著で述べている。戦後になりこれは事実に反するものだと知り、謀略の一環であったと感じたことを回想している(建川本人では無いが部下五人のうち一名が捕虜になったのは事実であった)[3]
軍令家

1909年(明治42年)12月、陸軍大学校第21期[4]優等卒業。その後は主として軍令畑を歩む。第一次世界大戦観戦武官として欧州戦線に従軍する。1918年(大正7年)7月、陸相秘書官となる。1923年(大正12年)3月には騎兵第5連隊長を拝命し、同年8月に大佐に進級。

陸軍屈指の実力者である宇垣一成の側近として重用され、1928年(昭和3年)3月に少将に進級、1929年(昭和4年)8月には参謀本部第二部長に就く。1931年(昭和6年)には宇垣を首班とした政権を目指すクーデター計画である三月事件杉山元小磯國昭らと参画したが何の処分もなく第一部長に転じた[5]。三月事件の前には、東京帝大で講演を行い、国防問題から発展して盛んに政治論をやり、聴衆から散々野次られたことが新聞に掲載されている[6]

また、橋本欣五郎ら佐官級の引き起こした同年の十月事件にも関与を疑われたことが土橋勇逸の手記にある[7]
満州事変


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef