建国神廟
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建国神廟

所在地満洲国新京特別市帝宮
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度54分11.5秒 東経125度20分39.2秒 / 北緯43.903194度 東経125.344222度 / 43.903194; 125.344222 (建国神廟)座標: 北緯43度54分11.5秒 東経125度20分39.2秒 / 北緯43.903194度 東経125.344222度 / 43.903194; 125.344222 (建国神廟)
主祭神天照大神
神体白銅製丸鏡
創建1940年(康徳7年)
本殿の様式銅板葺木造の権現造
例祭3月1日(建国節祭)
7月15日(元神祭)
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建国神廟鎮座祭(1940年7月15日)建国神廟の遺構(2023年6月)

建国神廟(けんこくしんびょう)は、満洲国の建国の元神とされた天照大神を祀った宗教施設。満洲国皇帝帝宮内にあった。1940年康徳7年)創建、1945年康徳12年)廃絶。

日本のいわゆる国家神道上の神社とはされなかったが、祭神をはじめ、建物の構造や儀式などは神社そのものであった。
概要

建国神廟は、1940年康徳7年)、満洲国首都新京特別市満洲国帝宮内に創建された。祭神日本皇室祖神とされる天照大神。天照大神は、満洲国建国の元神ともされていた。

1940年(康徳7年)7月15日の払暁、建国神廟鎮座祭が執り行われ、天照大神の神降ろしが行われた。その後、満洲国皇帝溥儀は文武百官を集め、「惟神(かむながら)の道」を国の基本とする「国本奠定詔書」を宣布した。また、建国神廟の祭祀・運営を所管する皇帝直隷機関として、同日付で祭祀府が新たに設置された。祭祀府総裁には、満洲国参議府副議長で元日本陸軍中将近衛師団長橋本虎之助が任命された。

建国神廟の創建は溥儀の発案とされる。1935年(康徳2年)の初訪日で、溥儀は日本皇室の影響を大きく受けるとともに、昭和天皇の威光と一体化することで、日本軍人・官僚勢力に対抗しようとした。その中で、天照大神への傾倒を強めていった。

1939年(康徳6年/昭和14年)秋、満洲国政府は非公式に日本の宮内省に対して天照大神の神廟を帝宮内に建立する考えがあることを伝えた。宮内省は陸軍省と協議して細部を詰め、1940年(昭和15年)6月21日付の外務大臣公文で正式に満洲国から日本政府に要請したことにより、内閣閣議案の作成に着手した。内閣には、天照大神を他国の帝宮で祀ることに消極的な意見もあったものの、同年6月29日に「満洲国建国神廟創建ニ関スル件」を閣議決定し、即日、外務省を通じて満洲国政府に伝達した[1]。この閣議決定では、満洲国政府からの公文で伝達された事項(建国神廟の創建、天照大神の奉祀、建国忠霊廟の創建などへの協力)を承服し、関係各省で研究の上、適切な措置を執ることなどを決めた。

昭和天皇は、満洲国が天照大神を祀ることにあまり気が進まなかったとされ[2]、「中国には古来、祭天の信仰があるから、を祀るのが妥当ではないか」と言ったという[3]
霊代

建国神廟の御霊代(神体)は、径10(約30.3cm)の無銘紐付き(紅の房紐付き)の白銅製丸鏡である。御霊代を納める唐櫃は、空襲に備えるため日本建鉄工業が製作した鉄製で、重さは50(187.5kg)あった[4]。当初は天皇からの神鏡の下賜を宮内省に申し出たが、「天孫降臨ノ事實ト似通ヒ到底受諾シ難」いとして断られ、次に皇大神宮伊勢神宮)の分霊をうけたいと申し出たが、これも宮内省に断られた。結局、満洲国皇帝が持参した神鏡に対して伊勢神宮で所定の修祓(お祓い)を行うことに落ち着いた[1]

そこで満洲国政府は、神鏡を京都の山東真一に調製させ、東京の高田義男装束店が納入した。1940年(康徳7年)6月、満洲国皇帝が皇紀2600年祝賀のため来日し、同年7月3日に行われた皇帝の伊勢神宮参拝の際、一行とは別に韋煥章外務局長官が完成した神鏡を納めた御筥を奉じて内宮神楽殿を訪れ、神部署職員による祝詞の奏上と御神楽が奉奏され、大麻をもって修祓が行われた。同年7月10日、修祓を受けた神鏡は皇帝とともに満洲国の国都新京に奉ぜられ、7月15日払暁、帝宮内に建立された建国神廟の内陣に安置された。また、皇帝が天皇から贈られた神宝として建国神廟の内陣に奉納された[5]

1945年(康徳12年)8月9日のソビエト連邦による満洲侵攻に伴い、皇帝溥儀は満洲国政府要人と共に通化に疎開する事となり、神鏡も建国神廟を離れ、祭祀府の外島瀏祭務処長、武智章、岡田實両奉祀官に護られ、祭祀府総裁の橋本虎之助をはじめとする祭祀府職員家族と共に皇帝に同行した。一行は通化を経て朝鮮との国境に近い大栗子に移り、神鏡は大栗子鉄鉱の社宅に奉安された。


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