logo延岡城
(宮崎県)
千人殺しの石垣
別名縣城、亀井城
城郭構造平山城
天守構造なし・御三階櫓(1655年築 非現存)
築城主土持氏
築城年慶長8年(1603年)
主な改修者高橋元種・有馬康純
延岡城(のべおかじょう)は、宮崎県延岡市本小路にあった日本の城。もとは縣城(あがたじょう)といい、別名に亀井城(かめいじょう)という。 江戸時代に高橋元種によって築かれた平山城である。築城当初は縣城と呼ばれたが、後に延岡城へ改称されている。縣藩、後の延岡藩の政庁、臼杵郡地域の拠点とされた。もともと、縣は古代以降土持氏の支配する所であり、この城も高橋元種の築城以前に存在した土持氏の城館を改修増築した可能性も考えられている。 延岡市松山町にあった中世・戦国期土持氏の拠点城郭松尾城(当時は縣城とも)を延岡城とする記述が見られることがあるが、これは誤りである(詳細は松尾城 (日向国)参照)。 延岡城には、ある石をはずすと一気に全壊し、一度に千人の敵兵を殺すことができるという石垣があり、「千人殺し」と呼ばれている。 天主台跡に鐘付き堂があり、現在も1日に6回、市民に時刻を告げている。歌人若山牧水もその様子を歌に詠んでいる。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(195番)に選定された。天主台跡からの景色と鐘の音 高橋元種が1601年(慶長6年)に築城を始め、1603年(慶長8年)に落成した。その後、明暦期の有馬氏による改築を経て、明治維新までの江戸期をつうじて、縣藩(三浦明敬支配期以降は延岡藩)の政庁となった。 しかし、高橋元種は1613年に罪人を匿ったとして改易され、その後は有馬氏・三浦氏・牧野氏と続き、内藤氏支配で幕末を迎えた。明暦1年(1655年)の有馬康純修築時に建設された天守代用の三階櫓は、1683年に焼失して以後再建されなかった。 1870年(明治3年旧暦10月)に薬園として活用することを新政府へ出願して聴許され、廃城となった。西ノ丸は内藤氏の私有地となるが、1881年(明治14年)に延岡市へ寄贈され、「内藤記念館」として利用されたが太平洋戦争時の1945年(昭和20年)の空襲によって焼失した。
概要
歴史北大手門(復元)
高橋元種時代
築城
に囲まれた中州と中央の独立丘陵 (延岡山、現在の城山)に城取り。縄張りは神田壱岐守による[3] 。松尾城から移徙の儀と神事能の奉納が行われた[3]。
城は、本城と西の丸の2郭から構成され、五ヶ瀬川と大瀬川を天然の外堀とし、城山の周辺に内堀と石垣を築く。本城は、本丸、二の丸、三の丸の3区に構成されている。
「台所、…、広間、…、弓書院」[3]や「城内ノ搦目手ノ籠門ノ矢倉」[4] などの建造物の記録や『慶長日向国絵図』(臼杵市立図書館蔵) の「縣城」には、他の城郭にはない3層の建築物やいくつかの櫓建築などが描かれており、数少ない高橋元種期の縣城の史料となっている。