延安
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、陝西省の現行行政区画について説明しています。かつて存在した延安市については「宝塔区」をご覧ください。

「延安」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「延安 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

中華人民共和国 陝西省 延安市
市街地の鳥瞰市街地の鳥瞰
陝西省中の延安市の位置陝西省中の延安市の位置
簡体字延安
繁体字延安
.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku Gothic ProN","メイリオ",Meiryo,"新ゴ Pr6N R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","IPAexゴシック","Takaoゴシック","XANO明朝U32","XANO明朝","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研中丸ゴシック2004ARIB","和田研中丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシックProN",YOzFont04,"IPA Pゴシック","Yu Gothic UI","Meiryo UI","MS Pゴシック";font-feature-settings:"jp04"1}?音Yan'?n
カタカナ転写イェンアン
国家 中華人民共和国
陝西
行政級別地級市
建市1997年
面積
総面積36,712 km²
人口
総人口(2004)210 万人
経済
電話番号0911
郵便番号716000
ナンバープレート陝J
行政区画代碼610600
公式ウェブサイト: ⇒http://www.yanan.gov.cn

延安市(えんあん-し)は、中華人民共和国陝西省に位置する地級市。1937年から1947年まで中国共産党中央委員会が置かれ、この期間中に毛沢東の党内主導権が確立したことから、共産革命の聖地とされる。
地理

延安は陝西省の北部の黄土高原地帯に位置し、現在の気候は大陸性気候で四季ははっきりとしているものの乾燥している。黄河本流最大級のの壷口瀑布がある。
歴史
成立

延安の地は古くは異民族による国家が存在しており、康王二十五年の青銅器小盂鼎に「盂攻鬼方」とあり、鬼方が現在の延安付近を示すとされる(周易)。

春秋時代には白狄と呼ばれる放牧を主な生業としていた少数民族の支配地域となり、重耳が流浪して現在の延安の地にたどり着いたという。

戦国時代に入るとの抗争の場となり、一帯を領有した秦は高奴県を設置した。ほぼ現在の延安市に相当すると推定されている。

秦による統一後も、咸陽あるいは長安の北辺の防衛拠点として重要な位置にあり、引き続き高奴県が設置されている。漢代にも引き続き高奴県は設置されており、『漢書』地理志には「高奴県有?水、肥可燃」とある。これが中国の史書における石油の記述の初出であるとされる。その後、554年西魏により延州が設置された。

隋代に延州は延安郡と改称された。これより後、この地は延州と呼ばれることになる。

北宋延安府を設置、末には農民反乱の拠点となり高迎祥李自成張献忠などが延安地区を拠点に反明活動を行った。清朝は明朝の制度を踏襲、延安府の下に3州(?州、綏徳州、葭州)、16県(膚施、安塞、甘泉、安定、保安、宜川、延川、延長、清澗、洛川、中部、宜君、米脂、呉堡、神木、府谷)を管轄した。雍正年間になると?州と綏徳州は直隷州に昇格、延安府の管轄は8県(膚施、安塞、甘泉、安定、保安、宜川、延川、延長)。とされ、乾隆年間に定辺県及び靖辺の2県がその管轄とされた。清代の事跡としては同治年間に張宗禹による農民反乱が発生、左宗棠により鎮圧された事件、清末に延長石油官廠を設置し、中国における初めての油田開発が行われている。

中華民国が成立すると1913年(民国2年)、市域には陝西省楡林道が設置された。1928年(民国17年)に道制が廃止されると各県は省直轄とされたが、1935年(民国24年)9月に行政督察区制度が施行されると北部は第2、南部は第3行政督察区の管轄区とされた。
革命の拠点

長征の最終目的地となった呉旗鎮(1935年10月到達)から保安を経て、1937年から1947年まで中国共産党中央委員会が置かれ、毛沢東が延安の窰洞を拠点に抗日戦線の指揮を行った。また、『新民主主義論』『持久戦論』『文芸講話』『連合政府論』など、毛沢東の主要著作とされる論文執筆をおこなった。これらの事跡によって革命の聖地とされている。

延安地区に中国共産党による組織が設置されたのは1926年(民国15年)、李象九や謝子長による宜川軍第一、第二支部が陝西省立第四中学に「延安特別支部」を設置したことに始まる。1930年代にかけての反?介石闘争の結果、陝甘辺区及び陝北辺区を設置、1935年(民国24年)には陝甘省と陝北省を称している。同年から開始された長征により1936年(民国25年)6月、毛沢東率いる中国工農紅軍陝甘支隊が延安に入城、1937年には陝甘寧辺区が、同年10月には延安市政府が成立し辺区政府直轄となっている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:44 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef