廣田神社
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この項目では、兵庫県西宮市の旧官幣大社について説明しています。その他の廣田神社については「広田神社 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

廣田神社

拝殿
所在地兵庫県西宮市大社町7-7
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分10.7秒 東経135度20分23.9秒 / 北緯34.752972度 東経135.339972度 / 34.752972; 135.339972 (廣田神社)座標: 北緯34度45分10.7秒 東経135度20分23.9秒 / 北緯34.752972度 東経135.339972度 / 34.752972; 135.339972 (廣田神社)
主祭神天照大神荒魂
(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)
社格式内社名神大
二十二社(下八社)
官幣大社
別表神社
創建神功皇后元年
本殿の様式神明造
札所等神仏霊場巡拝の道第68番(兵庫第3番)
例祭3月16日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}廣田神社
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一の鳥居

廣田神社(ひろたじんじゃ、広田神社)は、兵庫県西宮市大社町にある神社式内社名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社
祭神

主祭神 -
天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと))。伊勢神宮内宮の第一別宮荒祭宮祭神と同体。

脇殿神 - 住吉大神八幡大神武御名方大神高皇産霊神

歴史

日本書紀に当社の創建のことが書かれている[1]神功皇后三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。皇后の留守の間に忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社長田神社住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。

朝廷より篤い崇敬を受け、貞観10年(868年)に従一位に叙せられた。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、白河天皇の時代には二十二社の一社とされ、たびたび奉幣勅使の派遣があった。平安時代後期より、神祇伯白川家との関係が深く、代替わりのごとに当社に参詣していた。中世には和歌の神として信仰されるようになり、社頭にて何度か歌合せが行われている。

元暦元年(1184年)、源頼朝が当社に平氏の討伐を祈願して淡路国・広田荘を寄進している。慶長9年(1604年)には豊臣秀頼によって大規模な社殿の改築が、末社の戎社(現・西宮神社)共々行われている。

当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座したが、水害のため享保9年(1724年)に江戸幕府将軍徳川吉宗により廣田山の地に遷座した。

1871年明治4年)には官幣大社に列格した(兵庫県で最初。伊弉諾神宮1931年昭和6年)に列格)。かつて「向か津峰」と呼ばれた六甲山全山は、元は廣田神社の社領であったという[2]。六甲山大権現を古くからの祭神とする六甲山神社(むこやまじんじゃ石の宝殿=現廣田神社の摂社)と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)がかつての奥宮と考えられる。六甲比命神社は、インドの渡来僧法道仙人によって大化の改新の頃に、付近の心経岩・雲ヶ岩とともに、唐櫃(からと)の吉祥院多聞寺 (神戸市北区)(本尊は毘沙門天吉祥天・禅膩師童子)奥の院とされた。六甲山東麓の社家郷山は廣田神社宮司家の所有地であったその名残という。

1945年昭和20年)8月6日の西宮空襲によって社殿を焼失する。空襲による全焼までは廣田山に鎮座していたが、戦後その東側の現在地に移転している。

1948年(昭和23年)に神社本庁別表神社に加列されている。

本殿は伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を譲り受けて1963年(昭和38年)に竣工したが、1981年(昭和56年)に不慮の火災によって焼失した。

1984年(昭和59年)に現在の本殿が完成し、2001年平成13年)に鎮座1800年の喜節を迎えた。

廣田神社を中心とする神社群は、京から西国方向を目指す街道上にある神社ということで「西宮」(にしのみや)とも呼ばれていた。「西宮」の語は、後に廣田神社の神郷一帯(現在の神戸市東部から尼崎市西部まで)を指すようになったが、行政区画では廣田神社が武庫郡大社村、戎社(現・西宮神社)が西宮町となり、現在は町村合併により西宮市に含まれている。えべっさんで有名な西宮神社は元は廣田神社の摂社、浜南宮で、西宮神社境内社の南宮神社がその名残である。
境内

本殿 -
1984年昭和59年)再建。

第一脇殿・第二脇殿 - 第一脇殿祭神:住吉大神、第二脇殿祭神:八幡大神

第三脇殿・第四脇殿 - 第三脇殿祭神:武御名方大神、第四脇殿祭神:高皇産霊神

拝殿

御神水

社務所

斎館

参集殿


第一脇殿・第二脇殿

第三脇殿・第四脇殿

拝殿

授与所

斎館

二の鳥居

摂末社
摂社
境内社


齋殿神社祭神は神功皇后の命を受けて、天照大神御魂を広田の地に祀った葉山媛命。例祭日は
5月8日。元は境外にあったが、享保12年(1727年)に境内に遷座した。


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