この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "広津和郎"
広津 和郎
ひろつ かずお
『昭和文学全集 第48巻』角川書店、1954年。
誕生 (1891-12-05) 1891年12月5日
日本 東京府東京市牛込区矢来町
死没 (1968-09-21) 1968年9月21日(76歳没)
日本 静岡県熱海市
墓地 日本・谷中霊園
職業小説家・文芸評論家
言語日本語
国籍 日本
教育学士(文学)
最終学歴早稲田大学英文科
ジャンル小説・文芸評論
文学活動私小説・奇蹟派(新早稲田派)
代表作『神経病時代』(1917年)
『二人の不幸者』(1918年)
『死児を抱いて』(1919年)
『風雨強かるべし』(1933年)
『松川事件と裁判』(1964年、ノンフィクション)
主な受賞歴野間文芸賞(1963年)
毎日出版文化賞(1963年)
親族父・広津柳浪(小説家)
長女・広津桃子(小説家・随筆家)
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家。日本芸術院会員。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
早大英文科卒。奇蹟派の中心。評論から小説に転じ、虚無的な人生を描いた『神経病時代』(1917年)が評価される。批評や文学論争でも耳目を集める。作品に『やもり』(1919年)、『風雨強かるべし』(1936年)など。 伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2013年3月)
年譜
1891年(明治24年)
広津柳浪[注 1]と須美(旧姓・蒲池)[注 2]の次男として、東京牛込矢来町にて生誕[注 3]。2歳年長の兄・俊夫がいた。
1898年(明治31年)7歳
東京市立赤城小学校入学。
母・須美が結核で病死した。享年27。
この頃、中村吉蔵が寄寓し、永井荷風が父・広津柳浪に弟子入りした。
1900年(明治33年)9歳
東京牛込弁天町に転居、以後頻繁に東京市内を移転した。
1902年(明治35年)11歳
父・広津柳浪が再婚し継母・潔子を迎えた。
1904年(明治37年)13歳
麻布中学校に入学、病弱で欠席がちだった[注 4]。
東京麻布霞町、笄町に転居した。
1905年(明治38年)14歳
東京麻布霞町に転居した。
雑誌『女子文壇
この頃、同級生だった伊達順之助・石田幹之助・細川潤一郎などと知り合う。
1907年(明治40年)16歳
正宗白鳥の『妖怪画』を読み小説に関心をもつ。
1908年(明治41年)17歳
『微笑』が「万朝報」の懸賞小説に当選、賞金10円を得た。
1909年(明治42年)18歳
麻布中学校を卒業。
早稲田大学文科予科に入学、同級生に谷崎精二・白鳥省吾・今井白楊・青山杉作・坪田譲治・日夏耿之介らがいた。
父・広津柳浪は流行作家ではなかったので収入も少なく一家の生活は困窮していた。和郎は大学在学中には翻訳などで原稿料を稼ぐようになっていた。この頃、健康法として岡田式静坐法を始めた。
1910年(明治43年)19歳
早稲田大学英文科に進学[注 5]。
1912年(明治45年/大正元年)21歳
雑誌出版の参考意見を聞くために、舟木重雄らと共に志賀直哉を訪ねた。
舟木重雄を中心に葛西善蔵・光用穆・相馬泰三・峯岸幸作(後に谷崎精二)らとともに、同人雑誌『奇蹟』を創刊した。(翌年、第7号で廃刊)
1913年(大正2年)22歳
早稲田大学を卒業。
一家の生活が窮乏し東京麻布霞町の借家から追い立てられ、麻布本村町に転居した。
徴兵検査で「第一乙種砲兵」と判定された。
生活費を稼ぐためにギ・ド・モーパッサンの『女の一生』を翻訳して植竹書院から出版した。
1914年(大正3年)23歳
補充兵教育召集で3ヶ月召集されたが、結核の疑いで世田谷の衛戍病院入院となった。
父・広津柳浪が結核になり継母とともに名古屋に転地療養することになり、生活の必要から父の紹介で毎夕新聞に入社した[注 6]。
東京麹町永田町の永田館に下宿した。
翻訳の仕事を求めて宇野浩二が訪ねてきた。葛西善蔵が一時同居した[1]。
毎夕新聞に連載記事「須磨子抱月物語」を執筆した。
1915年(大正4年)24歳
年上の下宿の娘・神山ふくと男女の関係となり煩悶した。
毎夕新聞を退社し、相馬泰三の紹介で植竹書院翻訳部に入社した。
宇野浩二と共に三保の松原に旅行しトルストイの『戦争と平和』を翻訳した。(翻訳終了で植竹書院退社)
父・広津柳浪の作品集の印税を届けに名古屋の父の元へ行き、父を知多半島の師崎海岸に転地療養させた。