廖化
[Wikipedia|▼Menu]

廖化
許昌関帝廟の廖化像
蜀漢
中郷侯・仮節・右車騎将軍・并州刺史
出生生年不明
荊州襄陽郡中廬県
死去咸熙元年(264年
?音Liao Hua
元倹
別名廖淳/廖惇(改名前)
主君劉備劉禅
テンプレートを表示

廖 化(りょう か)は、中国後漢末期から三国時代の武将。は元倹。元の名は淳(惇とも書かれる)。荊州襄陽郡中廬県の人。『三国志蜀書宗預伝中にまとまった記載がある。
生涯

関羽に主簿として仕えた。関羽が孫権軍の呂蒙に敗れると呉に属したが、 劉備の下に戻ろうと考え、そこで自分が死んだという噂を流し、母を連れて脱走した。?帰においてへ進軍途中の劉備と出会った。喜んだ劉備から宜都太守に任命された[1]

劉備が崩御すると諸葛亮の参軍となり、のちに広武督に任じられた[1]??は諸葛亮から茂才に推挙されると、固辞して廖化らに譲っている[2]

その後、丞相府参軍、そして陰平太守となり、延熙元年(238年)9月、の守善羌侯である宕蕈の陣営を攻撃した。雍州刺史郭淮広魏太守王贇・南安太守游奕に兵を与え、山の東西から廖化を挟み撃ちさせた。兵力の分散を懸念した曹叡は「別働隊のうち必要でない者は引き揚げて要地を守らせよ」と勅命を下したが、詔勅が届かぬうちに游奕軍は廖化に打ち破られ、王贇は流れ矢に当たって死んだ[3]

延熙11年(248年)、姜維は北方へ進出し、魏に反乱を起こした族の治無戴を出迎えた。また、廖化は成重山に留まって城を築き、羌族から人質を取り立てた。郭淮は諸将の反対を押し切って軍勢を二手に分け、夏侯覇に沓中へ姜維を追わせ、自分は諸軍を率いて廖化を攻撃した。このため、姜維は引き返して廖化を救援せざるを得ず、北伐は失敗に終わった[4]。一方で郭淮らを撃退し[5]、郭淮に破られた治無戴・白文虎らを迎え入れ、益州へ移住させることには成功した。

延熙12年(249年)秋、姜維は再度北方へ進出したが、郭淮に阻まれ撤退した。廖化は郭淮が勝利に乗じて羌族を攻撃するため出陣した隙を突き、三日後に軍を返して白水の南岸に布陣しケ艾と対峙した。廖化はケ艾を釘付けにし、姜維は東進して?城を奪取する計画であったが、ケ艾に見抜かれていた。姜維が?城に着いた頃には、既にケ艾が引き返して立て籠っていた[6]五丈原諸葛亮廟の廖化像

廖化は次第に昇進し、仮節・右車騎将軍并州刺史となり、中郷侯に封ぜられた。(張翼と同様景耀2年(259年)のことか)果断激烈をもって称えられ、官位は張翼と同等で宗預より上であった[1]。廖化が張翼とともに大将となったとき、人々は「前に王平句扶あり、後に張翼・廖化あり」と語り合った[7]

諸葛瞻が朝政を統括するようになると、廖化は宗預の屋敷を訪ね、諸葛瞻に挨拶をしようと誘ったが「我らが七十歳を過ぎて望むことは、一日でも死を遅らせることのみ。年少の輩に何を望み、せこせこと訪問せねばならんのだ」と断られている[8]

景耀5年(262年)、姜維が軍勢を率いて狄道に進出した際、廖化は「戦いを止めなければ必ず我が身を焼く(『左伝』)、とは伯約(姜維)のことだ。智略は敵に勝っておらず、武勇も賊に劣っているのだから、北伐を続けたとしても、どうして成功しようか。『詩経』の言う我より先んじず我より後れず、とは正に今日のことだ」と姜維を批判した[9]

炎興元年(263年)、魏がを攻めた際、姜維・張翼とともに剣閣を守備し鍾会軍に抵抗したが、先に成都が陥落したため降伏した(蜀漢の滅亡[10]

咸熙元年(264年)、洛陽に連行される途上で病死した[1]。宗預との会話を見るに、没年齢は70歳代だったようである。
改名の時期

いつ改名したかについて、正確な時期は不明である。呉書陸遜伝には黄武元年(222年)、蜀書??伝には建興元年(223年)に廖淳の名前があり、また魏書明帝紀注では、景初2年(238年)9月に廖惇と記されている。廖化としての初出は魏書郭淮伝の正始9年(248年)である。
『三国志演義』成都武侯祠の廖化塑像

小説『三国志演義』では黄巾賊の残党ながら、仲間の杜遠が拉致してきた劉備の妻妾に無礼を働いたため、 首を斬って関羽に差し出す。その際、賊出身の人物を家来にすることを嫌った関羽に拒絶されている。劉備が荊州を手中にした頃に物語へ復帰し、関羽の主簿(幕僚長)となる。関羽が呂蒙に攻められ麦城へ逃げ込んだ時、上庸の劉封孟達へ援軍を求めに走ったが、拒否されて成都に走った。関羽死後に劉封らの処罰を劉備に訴え、これが孟達の脱走と劉封の処刑につながっている。

北伐の際には諸葛亮配下の将として活躍する。あるとき、諸葛亮の策により司馬懿を追い詰めたが、司馬懿が退路とは別の道にわざと兜を落としたのを真に受け、あと一歩のところで取り逃してしまった。諸葛亮は廖化の戦功を評価したものの、関羽ならば司馬懿を捕らえたであろうと、思い耽ることになる[11]。最期は正史と同様である。
脚注[脚注の使い方]^ a b c d 『三国志』宗預伝付廖化伝
^ 『三国志』??伝
^ 『三国志』明帝紀
^ 『三国志』郭淮伝
^華陽国志』劉後主志
^ 『三国志』ケ艾伝
^ 『華陽国志』劉後主志
^ 『三国志』宗預伝
^ 『三国志』宗預伝付廖化伝注『漢晋春秋』
^ 『三国志』姜維伝
^ この逸話を受けて、中国では人材に乏しい状況を嘆く意で「蜀中に大将なし。廖化を先鋒にする(蜀中無大将、廖化作先鋒)」という諺がある。

参考文献

西晋陳寿著『三国志

巻3 魏書3 明帝紀、巻26 魏書26 郭淮伝、巻28 魏書28 ケ艾鍾会伝
巻33 蜀書3 後主伝、巻44 蜀書14 ??姜維伝、巻45 蜀書15 宗預伝(付・廖化伝)
巻58 呉書13 陸遜伝

東晋常?著『華陽国志

巻7 劉後主志

羅貫中著『三国演義










陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷

(魏書)

巻1 武帝紀

太祖武皇帝曹操

巻2 文帝紀

文皇帝曹丕

巻3 明帝紀

明皇帝曹叡

巻4 三少帝紀

斉王曹芳

高貴郷公曹髦

陳留王曹奐

巻5 后妃伝


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef