廃藩置県
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1872年(明治4年12月)の地方行政区画(冨山房『大日本読史地図』)

廃藩置県(はいはんちけん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:廢藩置縣)は、明治維新期の明治4年7月14日1871年8月29日)に、明治政府がそれまでのを廃止して地方統治を中央管下のに一元化した行政改革である。ただし、沖縄県の近代史においては、琉球処分の一環として明治12年(1879年)に琉球藩を廃して沖縄県を設置したことを指す[1]#その他の異動を参照)。

300弱の藩を廃止してそのまま国直轄の県とし、その後県は統廃合された。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給はが直接支払い義務を負い、のちに秩禄処分により削減・廃止された。また、藩の債務は国が引き継いだ。

なお本項では、廃藩置県によって設置された「」の地理的規模を合理化するために、約4カ月後と5年後との2回にわたって実施された系統的な府県統合についても述べる。各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照
背景

慶応3年12月9日1868年1月3日)に勃発した王政復古の政変は、事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、新政府内部の中央集権化を進めようとする勢力にとっては各地に未だ残る大名領()の存在をどうするかが問題であった。

明治2年6月17日1869年7月25日) 274大名から版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが、各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状はほとんど江戸時代と同様であった。版籍奉還の時点で、一気に郡県制と統一国家を目指す勢力も新政府内にあったが政争に敗れた[2]

一方、旧天領旗本支配地等は政府直轄地としてが置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを「府藩県三治制」という。なお「藩」という呼称は江戸時代からあったが、制度上で呼称されたのはこの時期が初めてであり、江戸幕府下では正式な制度として「藩」という呼称はなされなかった。したがって、公式に「藩」という制度が存在したのは、明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけともいえる。

新政府直轄の府と県は合わせて全国の4分の1程度に過ぎず[3]、また一揆などによって収税は困難を極めたため[4]、新政府は当初から財源確保に苦しんだ。

当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおり、この府藩県三治制は非効率であった。また軍隊は各藩から派遣された藩兵で構成されており、統率性を欠いた。そして各藩と薩長新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。戊辰戦争の結果、諸藩の債務は平均で年間収入の3倍程度に達していた[5]。財政事情が悪化したため、また統一国家を目指すために、自ら政府に廃藩を願い出る藩も出ていた(鳥取藩池田慶徳名古屋藩徳川慶勝熊本藩細川護久盛岡藩南部利恭など)[6]

明治3年12月19日(1871年2月8日)、大蔵大輔大隈重信が「全国一致之政体」の施行を求める建議を太政官に提案して認められた。これは新国家建設のためには「海陸警備ノ制」(軍事)・「教令率育ノ道」(教育)・「審理刑罰ノ法」(司法)・「理財会計ノ方」(財政)の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩県三治制の非効率さを指摘して府・藩・県の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとした。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「県」とは違い、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。

薩摩藩、長州藩においては膨れ上がった軍事費が深刻な問題となっており、これに土佐藩を加えた三藩から新政府直属の親兵を差し出すことで問題を回避するとともに、中央集権化が図られた[7]

なお、寺社もまた藩と同様に農民に年貢を課す領地を持っていたが、廃藩置県に先立つ明治4年1月5日の上知令により境内を除いて国に没収された。
紀州藩(和歌山藩)の藩政改革

明治元年11月(1868年12月)、紀州藩第14代藩主・徳川茂承より藩政改革の全権を委任された津田出は、陸奥宗光に会い、郡県制度(版籍奉還・廃藩置県)、徴兵令の構想を伝える。

明治2年7月(1869年8月)、陸奥宗光は廃藩置県の意見書を提出するが、採用されず下野し、津田出らとともに紀州藩の藩政改革に参画する[8][9][10]。紀州藩の藩政改革は、郡県制の実施、無益高(藩主や藩士に払う家禄を10分の1に削減)を実施、カール・ケッペンらの指導によりプロシア式の洋式軍隊を創設し、四民皆兵の徴兵制度を整え、満20歳以上の男子には徴兵検査を受けさせた。また、藩主の下に執政を1人置き藩全体を統轄させた。執政の下に参政公議人を置き、執政の補佐や藩と中央政府との連絡を行った。また政治府と公用局、軍務局、会計局、刑法局、民政局の5局、教育を掌る所として学習館(後の和歌山大学)を設置した。それに加え、藩主の家計事務一切を藩政から分離する「藩治職制」を新設し、設置した。最低生活を保障する給与である無役高で禄高を10分の1に減額されたが、それぞれの官職についた者については文武役料が追加され、人材抜擢が行われた。この際、無役高のみの者に対しては、城下以外への移住、副業や内職のために農工商業を営むことが許され、紀州藩での封建制度は崩壊した。なお、長州藩鳥尾小弥太は、この改革に戊営副都督次席として参与している。この改革を西郷従道西郷隆盛の代理で村田新八山田顕義が見学した。この改革が、日本の近代国家建設のモデルケースとなり、明治4年(1871年)の廃藩置県、明治6年(1873年)の徴兵令に影響を与えた。
実行前夜

主に軍事面と財政面において中央集権体制を進める廃藩置県の必要性は次第に政府内で支持を増やしていた。一方で薩摩藩島津久光などの近代化と中央集権化に反対する勢力も存在感を維持し、これらに対して大久保利通木戸孝允などの新政府実力者は漸進的な姿勢をとらざるを得なかった。特に圧倒的な軍事力を抱える薩摩藩の動向は、大きな懸念材料となっており、薩摩藩出身の実力者たちは慎重な姿勢を見せていた。この現状に中間官僚たちは危機感を強めた[11]

7月4日8月19日)、兵制の統一を求めていた山口藩出身の兵部少輔山縣有朋の下に居合わせた同藩出身の鳥尾小弥太野村靖が会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られ、山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。山縣は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った[12]

翌日2人は、大蔵省を切り回し財政問題に悩む井上馨を味方に引き入れ[3]7月6日8月21日)に、井上は木戸を[13]、山縣は西郷隆盛を説得した[14]。西郷は戊辰戦争後の薩摩藩における膨大な数の士卒の扶助に苦慮し、藩体制の限界を感じていた[15]。薩摩藩で大きな支持を集める西郷の同意を得て、中央集権化を密かに目指していた大久保や木戸も賛成した。当初廃藩置県案は薩長両藩の間で密かに進められ、7月9日8月24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道大山厳、木戸、井上、山縣の7名の薩長の要人が木戸邸で案を作成した。その後に、公家、土佐藩佐賀藩出身の実力者である三条実美岩倉具視板垣退助大隈重信らの賛成を得た。


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