廃仏毀釈
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廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは、仏教を廃すること。「廃仏」は仏法を廃し、「毀釈」は釈迦(仏教の開祖)の教えを棄却するという意味である[1]
概要

中国においては3世紀以来、廃仏の動きが強く、韓愈以後の朱子学派の廃仏論が大きな影響力をもった。とりわけ中国仏教史においては三武一宗の法難が有名である[2]

日本においては、崇仏論争期や江戸期にみられたが、どちらも政治上の政策転換時期にあたる。前者は初の仏教受容時期による政治的混乱がみられ、後者は藩学の向上によって、儒学国学神道学などの学問が発展し、幕藩体制に変化(明治維新)が出たからである。特に後者は、江戸幕府の宗教政策であった、仏教国教的な葬式仏教檀家制度の国民負担に対する疑義へ繋がったとされる。これは、いわゆる国家仏教からの政策転換とも成り得たことから、神国思想が広まった幕末期に特に表面化した[2]。その後の明治初期には、文明開化四民平等による国民負担軽減策に当たる神仏分離令の影響も受け、一連の民衆運動が発生する。これを廃仏毀釈と呼ぶことが多い[2]。結果として、近世の仏教治国策とも言うべき政策の見直しとなったが、近代化を目指す日本仏教は、国から寺院への莫大な財産分与(民営化)の恩恵もあり、好条件で民間宗教としての再出発を果たしたのであった。そのため廃仏運動は、むしろ仏教覚醒の好機ともなり、近代以降の日本仏教はこれをてこにして形成されたという耳障りの良い大義名分で明治政府からつながる現代政府の美化に転嫁して迫害を隠している。[2]
日本
近世以前

インド発祥の宗教である仏教は、日本への伝来後、帰化人を中心に信仰され民間に広まってゆく[3]。『日本書紀』によれば、仏教公伝は552年(欽明天皇13年)であるが、『元興寺縁起』などでは538年とされている[3]。これ以降、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏中臣氏の争いが起きたが、物部守屋の敗死と厩戸皇子により仏教受容が確定した[3]。これは、後の鎌倉時代に仏教が発展・浸透してゆく切っ掛けとなったといえる[3]。しかし、その後の政府と仏教寺院はしばしば現地で対立をし、戦国時代には織田信長による1571年(元亀2年)の比叡山焼打ちなどの弾圧も起こった[4]

江戸時代前・中期以降になると、学問の発展によって儒学国学神道学などの立場から神仏習合を見直し、神仏分離を目指す動きが見られるようになっていた。これは、江戸城で勤務する諸大名にも広がってゆく。例えば好学で知られた会津藩保科正之は、山崎闇斎吉川惟足などを重用したため、彼らが正之の宗教政策に大きな影響を与え[5]、会津藩などで神仏分離が推進された[6]1666年(寛文6年)には水戸藩岡山藩でも寺院破却が行われている[2]。また朱子学者でもあった水戸藩徳川光圀は、領内の寺院整理に関してほぼ半数を破却させている[7][8]
幕末期

神仏分離や廃仏が地方的な運動から全国的な運動に広がってきたのは江戸時代末期であり、特に水戸藩藩学発展により成立した水戸学(文献史学)によって、神仏分離して神道を尊重することを求める声や、仏教への疑問の声が広まった。

尊皇攘夷派の水戸藩主徳川斉昭弘道館を建て、水戸学による藩士の教化に努めつつ、領内の廃仏棄釈を推進した[9]。斉昭は西欧列強への対抗と藩財政の立て直しから、藤田東湖会沢正志斎らとともに、より大規模な寺院負担軽減を施行した。天保年間には水戸藩は防衛整備近代化の一環(大砲の新造)として、寺院から梵鐘仏具を供出させて、多くの寺院整理に着手[8]。これらの経緯と体験は、新政府を形成することになった国際観を持った若手政治家に、水戸学の有効性を理解させたとされる[10]。また、同時期に勃興した国学においても、神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きも勃興した。中でも平田派は、明治新政府の最初期の宗教改革に関与することとなったが[10]近代化への流れの中で次第に衰退した。

上述のように徳川斉昭は、藩内の寺院に対し、金銅仏や梵鐘などの金属製の仏具を供出させ、それを海防のための大砲鋳造の原料に充てる政策を実施していたが、これに対し、仏教を冒涜しているとの批判も上がったが、斉昭は「かつて江戸幕府が公益上の必要(貨幣流通量の不足)から、方広寺大仏(京の大仏)を鋳潰して銭貨にした」ことを先例に挙げ、自身の政策も国防上必要なもので、やむを得ない政策であると弁明を行っている[11]
明治初期

慶応4年3月13日1868年4月5日)に、政府より「神仏分離令」「神仏判然令」と通称される太政官布告[12]、および明治3年1月3日1870年2月3日)に出された詔書大教宣布[13]など、仏教による国民負担の軽減策[注釈 1]が出された。

こうした軽減策は、当初は神道仏教の分離が目的の行政改革であり、仏教排斥を意図したものではなかった。しかし、結果として長年仏教に圧迫されてきたと考える神職者たちによって廃仏運動が惹起され、平田派国学者の神職や民衆によって仏像仏具が破棄される廃仏毀釈運動が全国的に発生することとなった[2]

他にも廃仏運動が広がった原因としては、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}黒船来航以来の西欧列強の外圧による危機的状況、水戸学平田派国学の発展、仏教国教化権益や僧侶特権への反感、地方官が寺院財産の収公を狙ったこと、政治・文化の近代化信教の自由産業革命の影響など、当時の様々な社会的・政治的理由がある。[要出典]

廃仏毀釈運動の広まりに対して、政府は「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ」ことと、「神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではない」との注意を改めて喚起した。しかし、廃仏毀釈のおかげで江戸期の特権を寺院が喪失することにも繋がり、仏教界に反省を促し、仏教寺院を近代的宗教団体へ脱皮させる近代化に結びついたとする意見もある[2][15]


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