庶子
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この項目では、近代以前の子の身分について説明しています。

近代以降の子の身分についての法律用語については「非嫡出子」をご覧ください。

中国の歴史上の官職については「zh:庶子 (官制)」をご覧ください。

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出典検索?: "庶子" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年6月)

庶子(しょし)は、正室ではない女性から生まれた子供を指す語。結婚婚姻)制度の確立により生じた概念である。そのような制度が確立していない社会においては、母親の身分や両親の関係によって区別を受けた以外に嫡出庶出といった区別は意味を持たなかった。

結婚制度は、(1)相続権・親族関係の明確化といった世俗的な要求と、(2)性交渉に拘わるモラルの確立といった道徳的・宗教的な要求から生じて来たものであり、その枠外である庶子は、世俗的権利とモラルの両面において嫡子と差別を被ることになる。

大小の差別を受けるにも拘わらず、庶子が存在したのは次のような理由が考えられる。

相続が認められる社会においては跡継ぎの確保、認められない社会においても一門の繁栄という観点から。相手は側室

多くの時代において結婚は、影響力や財産の確保を目的とした家同士のつながりにより行われたため、身分差などで結婚出来ないとき。相手は愛人

聖職者等、父親が妻帯出来ない職業の場合。

本来、「庶子」という語は広く婚外子を指す語であるが、その中でも「側室が生んだ子供」という意味も持っているため、現代では差別的であるとして通常使われていない。1942年に改正されるまでの民法においては、父親が認知した婚外子を「庶子」、認知していない婚外子を「私生児」と呼んだ[1]。1942の年民法改正後では「嫡出でない子」、特に近年では「婚外子」という語が用いられている。嫡出の項を参照のこと。
日本

日本で最初に嫡子と庶子の身分的差異を明らかにしたのは律令制における蔭位であるとされる。正室のほかに複数の側室を持っていた当時の貴族社会では公に認められた正妻の内、最初に婚姻した妻を嫡妻、嫡妻の生んだ長子を嫡子と定めた。蔭位は父祖の位によって子、孫に与えられる位階を定めたものだがこの中で嫡子と庶子に明確な差をつけた。このため貴族は自らの系図を作成し、いかに自分の先祖が高位であったか、いかに自分の家系が嫡流であるかをアピールした。

しかし11世紀ごろから律令制が形骸化し、貴族社会から武家社会に時代が移行すると家の興廃を左右する嫡男の概念は変化する。実力や生母の家柄によって子供の中から嫡男が指名されるようになり、状況によって一度嫡子とされたものが廃嫡し、正室以外の子供でも認められれば立嫡を経て嫡子として扱われた。嫡子以外すなわち庶子は家臣となって分家し、庶家を立て、庶流を形成した。嫡流の当主は氏長者として一門を統率したが、庶流の中には嫡流に従うばかりではなく、凌駕して取って代わるものも出た。下克上である。

日本の武家社会(及びその影響下にある社会)においては嫡男以外の家督相続権のない男子のことを庶子といい、この場合正室の子供であるなしは関係なく、長男が嫡男とは限らない。嫡男は総領などと呼ばれ、庶子は分家して庶家となり、庶流を形成することがあった。

戦国時代においては奇しくも3人の天下人織田信長豊臣秀吉徳川家康)の跡継ぎはいずれも庶子である(信長、秀吉は正室との間に子がなく、家康は正室築山殿との間に信康がいたが若くして自害している)。やがて戦国時代が終わりを告げると、徳川家康は改めて長子相続の原則を明らかにした。

江戸時代に入り社会が安定すると、本来の嫡男が病弱などの理由で他家や親戚筋から養子を迎える例が多くなり、場合によっては西条藩のように嫡子の松平頼雄が廃嫡され、庶子の松平頼致(のちの徳川宗直)が家督相続することすら起こるようになる。これは単純な血統の存続よりも「家」の存続を第一に考える日本の考え方や江戸幕府による末期養子への制限、徳川将軍家や大名家の子の死亡率が高かったなどによるものである。このことによって兄弟の二・三男や庶出子にも出世のチャンスがめぐってくる確率が増えた。一方「家」にとっては優秀な人材をリクルートするチャンスでもあった。しかし養子の話がまとまらない者は「部屋住み」「厄介」などと呼ばれ肩身の狭い思いを余儀なくされた[注 1]。徳川8代将軍徳川吉宗は、紀州藩徳川光貞が57歳のときに湯殿番であった於由利の方に生ませた子である(側室の子)。徳川将軍家において正室の子は家康・家光慶喜の3名のみである。そのうち御台所の子は家光のみである。江戸時代の将軍に限らず、諸藩大名もほとんどは庶子出身であったとされ、正室出生の人物の方が少ないといえるが、多くの場合は正室の養子とされることで、名目上の家督相続の正当性を保たせた。
平重盛の息子

九条兼実の日記『玉葉』によれば、嘉応2年(1170年)当時平重盛の嫡男は資盛(次男)であると記されている。ところが8年後には、重盛の嫡男は異母兄の維盛(長男)であると記されている。記録を見ても、資盛の母は下総藤原氏の出と判明しているのに対し、維盛の母は『尊卑分脈』では官女としか書かれておらず、素性が知れない女性と推定されている。角田文衞によれば維盛の母は重盛の室の1人の平時信の娘で、平時子たちの姉妹の内裏女房の坊門殿と呼ばれていた女性ではないかと書いている[2]

また嘉応2年当時における資盛の官位が維盛のそれよりも高かったことを考慮すると、これは兼実の誤りではなく、庶子であった維盛が立嫡を経て、資盛に替わる嫡子に立てられたと見るべきである。一方、洞院公賢が編した『皇代暦』には、小松家(重盛の家系)を相伝したのは資盛と書かれている。これは維盛の岳父藤原成親鹿ケ谷の陰謀に関わって失脚したために維盛が政治的な後ろ盾を失い、その後の小松家では実権が資盛に移ったためだと考えられる。

他にも重盛の正室で成親の妹の経子の長子で重盛の三男だった清経も、叙爵や禁色を許された年齢が兄2人より早かった。しかし維盛と同じく成親が岳父だった事と、母親が成親の妹の経子だった事もあってか、鹿ケ谷以降は官位の昇進が遅くなっており、兄2人と違って公卿には至っていない。
北条泰時と北条朝時

鎌倉幕府2代執権北条義時の正室は有力御家人比企氏の一族で美女の誉れ高い姫の前で、義時は1年もの間文を送ったがなびかず「絶対に離縁しない」旨の起請文を入れ、源頼朝に仲介を頼んでようやく正室に迎えた。義時の長子は泰時であったが、姫の前の子朝時(名越朝時)が嫡男として扱われた。しかし朝時は、3代将軍源実朝の正室(西八条禅尼)の官女に艶書を届けていたことが露見して実朝の怒りを買い、失脚した。義時は朝時を義絶、庶長子の泰時を嫡男とした。父・義時が急死すると泰時が得宗家を相続し、3代執権となった。

一方、朝時は蟄居を命ぜられていたが戦功を挙げて許され、鎌倉に帰参する。庶流に下った朝時の系統は名越流として一門に列したが、宮騒動二月騒動などでたびたび得宗家に反目したという。


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