.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}庵野(あんの) 秀明(ひであき)
2016年7月25日、東京都新宿区にて
本名庵野 秀明
別名義
あんの ひであき
アンノ ヒデアキ
空母そ・そ・そ・そ
生年月日 (1960-05-22) 1960年5月22日(64歳)
出生地 日本・山口県宇部市
国籍 日本
血液型A型
職業
アニメ監督
アニメーター
脚本家
映画監督
プロデューサー
声優
ジャンル
アニメーション映画
実写映画
テレビアニメ
配偶者安野モヨコ(妻)
著名な家族小島功(義叔父)
公式サイト庵野秀明公式web
受賞
東京国際映画祭
最優秀芸術貢献賞
2000年『式日』
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
2017年『シン・ゴジラ』
最優秀編集賞
2017年『シン・ゴジラ』
最優秀アニメーション作品賞
2022年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
その他の賞
日本SF大賞
1997年『新世紀エヴァンゲリオン』
特別賞
2016年『シン・ゴジラ』毎日映画コンクール
日本映画大賞
2017年『シン・ゴジラ』ヨコハマ映画祭
新人監督賞
1999年『ラブ&ポップ』
特別大賞
2017年『シン・ゴジラ』日本映画批評家大賞
アニメーション監督賞
2013年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
2022年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』キネマ旬報ベスト・テン
脚本賞
2017年『シン・ゴジラ』文化庁メディア芸術祭
エンターテインメント部門大賞
2017年『シン・ゴジラ』
アニメーション部門優秀賞
1997年『新世紀エヴァンゲリオン』
2013年『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』芸術選奨文部科学大臣賞
2017年『シン・ゴジラ』紫綬褒章
2022年受賞歴参照
テンプレートを表示
庵野 秀明(あんの ひであき、(1960年〈昭和35年〉5月22日 - )は、日本のアニメ監督・アニメーター・脚本家・映画監督・声優・実業家。カラー代表取締役社長。株式会社プロジェクトスタジオQ創作管理統括。株式会社でほぎゃらりー取締役。NPO法人アニメ特撮アーカイブ機構理事長。山口県宇部市出身。山口県立宇部高等学校卒業。大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(現・映像学科)除籍。血液型はA型。妻は漫画家の安野モヨコ。
別名義として、アニメーションを手がける際のあんの ひであきやアンノ ヒデアキ、作詞家としての空母そ・そ・そ・そ、樋口真嗣との作詞コンビHIDE&シンディー?などがある。
代表作に『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』、第18回日本SF大賞受賞作の『新世紀エヴァンゲリオン』、ゴジラシリーズ第29作で第40回日本アカデミー賞などの数々の賞を受賞した『シン・ゴジラ』などがある。監督作が日本アカデミー賞の最優秀作品賞と最優秀アニメーション作品賞の両方を受賞した宮崎駿、山崎貴に続く史上三人目の映画監督である。 幼いころよりアニメや特撮、そして大規模建造物などの絵を夢中で描いていたという。生まれ育った山口県宇部市はセメント工業などが盛んな街であり、その工場群の原風景は人工物、メカニックを好む感性に影響を与えたという[1]。高校の時代には「工場のある赤い風景」のような作品を描いている[1]。また、漫画少年でもあり、中学生のころは特に少女漫画を大量に読んでいた[2]。庵野の父親は若いころの事故で左足の膝から下を失っており義足であった。朝日新聞「おやじの背中」(1999年8月30日)で、父親のその姿に影響を受けていること、完全なものは好きになれない、自分にとっては何かが壊れ、欠けていることが普通であると語っている。 山口県立宇部高等学校での高校生時代には、美術部で部長を務めるほどの画力を有していた。アマチュア映像制作グループ「グループSHADO」にも所属し、自主制作の映像作品『ナカムライダー』が、文化祭で上映された。 高校卒業後は就職せず、遊んでばかりいたために親に心配され、一浪を経て、当時、入試が実技のみであった大阪芸術大学映像計画学科に進学する。受験対策は宮崎駿らの絵コンテなどを見て勉強したという[3]。 同じ学科の同級生には南雅彦・西森明良などの同業者、広告デザイナーの碇義彦や漫画家の島本和彦および士郎正宗なども在籍していた。士郎とは学生時代の面識・交流の有無は不明だが、後に『アップルシード』『蒼きウル(未発表)』にて互いにスタッフとして参加している。 サークルはSF研究会に所属。入学当初、同級生の山賀博之、赤井孝美らと班を作る。なお、このころの庵野について、画力は「特にメカの描写は圧倒的であった」と後に山賀が語っており、学生生活の様子は島本和彦の漫画作品『アオイホノオ』に詳しく描かれている。 そのころ、2回生に誘われた自主制作アニメに熱中し、山賀たちとの自主製作映画グループである「DAICON FILM」の主要メンバーとして参加した、大阪で開催のSF大会では異例であったオープニングアニメーションや、特撮作品などを製作し、プロをも驚かせ高い評価を受けた。この時、スタジオぬえのメンバーに誘われ山賀たちと『超時空要塞マクロス』の制作に参加し、アマチュアのアルバイトであるが、数話分の動画から原画までを担当した。この時に描いた爆発シーンが各所で評価され、仕事が来るようになったという[4]。また、『アニメージュ』に掲載された、劇場アニメ『風の谷のナウシカ』の人手不足のための作画スタッフの募集告知を見て上京し、原画担当として採用される[4]。 学校生活では、共同実習にしか出席せず、学費も未納状態であったため、3回生時に除籍処分を受けるが、通学しなくなったのは、単位さえ取れればそれでいいという、周囲のやる気のない学生に付き合って在籍し続けるよりも、自分の作品を作り続ける方が意義があるとの考えからとのことである。なお、この時にはすでに『風の谷のナウシカ』への参加に伴う上京が決まっていた。また、漫画家を目指そうとした時期もあったが、漫画の才能は無いとの考えから断念している[5]。 上京し、アニメーターの板野一郎を紹介される。板野が描いた『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』の原画を見て「本当にすごくて、こんな原画が世の中にはあるんだ」と感動した。そしてプロ入りし、板野の間近で『超時空要塞マクロス』の原画修正をいきなり任される[4]。劇場版の『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』にも参加している。 その後劇場アニメ『風の谷のナウシカ』やOVA『メガゾーン23』などの商業作品に参加し、メカや爆発シーンなどのエフェクトアニメーションを手がける。『風の谷のナウシカ』では、採用時に持参した大量の原画が宮崎駿に評価され、難しいとされるクライマックスの巨神兵登場のシーン担当に抜擢された。この時、人物も描くよう監督から指示されるも、出来が悪かったため監督本人に頼んだというエピソードがある[6]。このころから原画・動画一筋でやっていくのは無理だと考え、監督・演出の仕事をメインに切り替える。ちなみに、パンフレットに記載されている「巨神兵の呪いを受けて腹を壊したA氏」は庵野のことである。宮崎からは特に監督としての仕事の進め方などを学んだという[7]。また、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季らも含め、アニメーション界を代表する作家の仕事に参加できたことをとてもラッキーだったと語っている。 その後、DAICON FILMを母体とするガイナックスの初作品『王立宇宙軍 オネアミスの翼』には「スペシャルエフェクトアーティスト」という肩書きで参加。やたら長い肩書の理由は「SFX」や「アーティスト」という呼称が嫌いだったため世間への嫌がらせとして命名したものである[8]。クライマックスシーンでは、戦闘・ロケット発射シーンは絵コンテから作画までほとんどを1人でこなした。セルを1コマに9枚重ね、3秒間でセル枚数が250枚にも上るカットもあるという。当時、戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、軍事関係の資料に手当たり次第に目を通し、自衛隊にも体験入隊している。
来歴
生い立ち
大学生時代
アニメーター時代
Size:251 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef