座頭市_(1989年の映画)
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座頭市
Zatoichi
監督
勝新太郎
脚本勝新太郎
中村努
市山達巳
中岡京平
原作子母沢寛
製作勝新太郎
塚本ジューン・アダムス
塚本潔
真田正典
出演者勝新太郎
樋口可南子
音楽渡辺敬之
主題歌JOHNNY
撮影長沼六男
編集谷口登司夫
製作会社三倶
勝プロモーション
配給松竹
公開 1989年2月4日
上映時間116分
製作国 日本
言語日本語
配給収入11億円[1]
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『座頭市』(ざとういち)は、1989年2月4日に松竹で封切り公開された日本映画

勝新太郎主演で製作された最後の座頭市作品。勝は脚本・製作・監督を兼任。制作当時、日本社会はバブル景気で、映画に投資を行う企業は多かった。こうしたなか、J trip barなどを経営する「三倶」から制作を持ちかけられ、松竹が配給するという形で企画は始動した[2]
ストーリー

十手持ちをからかって3日間の牢入りと百叩きの刑を受けた盲目の按摩・座頭市は、知り合いの儀肋を頼って銚子のとある漁村に辿り着く。近隣を取り仕切るのは、地域一体を監督し絶大な権力を有する八州取締役に近づき、地盤を確固たるものにせんとする極道・五右衛門。五右衛門は大親分の叔父を殺し、一家を乗っ取って八州取締役と組む。

市は儀肋の言に従い地元の賭場へ出向き、そこで同じ牢の囚人・鶴と再会する。鶴が巻き上げられた金を取り戻した市は五右衛門一家と揉め事を起こすが、女親分菩薩のおはんの執り成しによってその場は治まり、その後、五右衛門が放った刺客達を返り討ちにしながら旅を続ける。その旅の道中で市は凄腕の浪人と知り合い、意気投合。また鶴とも再会し、彼が座頭たちの杖となる事を選んだと知って大いに喜ぶ。やがて市は孤児を集め育てる少女おうめと知り合い、この少女に母の面影をみて心を通わせ、彼女の下に逗留する。しかし五右衛門一家は浪人を雇い入れてしまい、逡巡する浪人は市に一緒に旅に出ようと誘いをかけるが、市はその時は浪人の方から声をかけて欲しいと約束して別れてしまう。

おうめの暮らす宿場は、五右衛門一家と対立する赤兵衛一家の親分・赤兵衛によって支配されていた。五右衛門、八州取締役との対立が水面下で深まる中、赤兵衛は市の腕を見込み、用心棒として雇おうとするが、市はその手に乗らなかった。だが接待用の献上品とされたおうめを救うために市が八宗取締役を始末した朝、赤兵衛が市を取り込もうとした事を知った五右衛門によって、宿場を巻き込んだやくざの出入りが勃発する。そしてその戦いに五右衛門が勝利した時、ついに座頭市が現れ、壮絶な戦いの幕が切って落とされた。
スタッフ

監督:勝新太郎

製作者:勝新太郎、塚本ジューン・アダムス

プロデューサー:塚本潔、真田正典

原作:
子母沢寛

脚本:勝新太郎、中村努、市山達巳

脚色:中岡京平

撮影:長沼六男

照明:熊谷秀夫

音楽:渡辺敬之

美術:梅田千代夫

編集:谷口登司夫

録音:堀内戦治

音響効果:帆苅幸雄

スチール:金田正、大谷栄一

監督補:南野梅雄

助監督:猪崎宣昭

主題曲:JOHNNY「THE LONER」

題字:日比野克彦

殺陣:久世浩

特殊造型:江川悦子、大池しおり、佐和一弘、寺田高士

現像:東京現像所

キャスト

座頭市:
勝新太郎

五右衛門一家

五右衛門:奥村雄大

菩薩のおはん:樋口可南子

大親分:田武謙三

仁:蟹江敬三

車助左衛門:ジョー山中

用心棒:安岡力也

赤兵衛一家

赤兵衛:内田裕也

源太:江幡高志

その他

八州取締役:陣内孝則

儀肋:三木のり平

浪人:緒形拳

おうめ:草野とよ実

鶴:片岡鶴太郎

庄屋:多々良純

岡っ引き:梅津栄

旅の按摩:川谷拓三

松村和子堀田真三長谷川恒之上田耕一、金子研三、根岸一正深作覚森岡隆見粟津號堺左千夫松本朝生相原巨典楠田薫吉中六うえずみのる水森コウ太片岡みえ青柳文太郎立木文彦小池雄介沼崎悠加地健太郎久遠利三久保晶幸田宗丸伴直弥大木正司草薙良一藤江リカ姫ゆり子 ほか

製作

勝は『座頭市』シリーズを支えてきた中村努、真田正典、南野梅雄といった旧知のスタッフを招集[2]

1988年(昭和63年)正月明けから始まった企画は、勝が脚本作りを何度も振り出しに戻すうちに、半年を浪費するに及んで、ついに松竹は企画打ち切りの意向を伝えてきた。慌てた中村努は勝を説得し、形ばかりの脚本を松竹に提出し、なんとか制作に入ることとなった。ストーリーはすべて勝のイメージを中村努が後付けで文章にまとめる形で進められた[2]

しかし、テレビシリーズ最後まで制作現場としてきた旧大映京都撮影所は数年前にマンションとなり、東京のにっかつ撮影所での制作となった。息の合う撮影スタッフはスケジュール上の都合で揃えることが出来ず、東京の映画スタッフを急遽集めなければならなかった。また貸しスタジオのためパーマネントセットが組めず、撮影のたびに壊さなければならなかった。このなか映画の現場に不慣れな美術デザイナーは、巨大な博打場のセット(文化財家屋をモデルに使った)を組んでしまい、維持管理に莫大な予算を使い、このセットだけで5000万円を費やすこととなった[2]

「勝プロ」時代から、勝の映画作りは完全なワンマン体制で、勝のイメージがすべてに先行し、脚本は全く無視され、撮影ではアドリブでその場で演出が変わるのが恒例だった。旧来のスタッフはこれを熟知していたが、その他の新規スタッフは戸惑うばかりで撮影は円滑に進まなかった[2]

東京を本拠としたため、ロケ場所の選定もひと苦労だった。アドリブ主体の勝の撮影に対応した機材資材一切をトラック隊に積み、青森から広島まで、全国をロケ隊が回った。勝の意向で片岡鶴太郎はロケが突然中断されて別日に変更され、このため出演部分の撮影が遅れてしまい、ついにはレギュラー番組の出演を1回休むこととなった[2]
みろくの里セット

物語の主要部分であるラストの大立ち回りなどを撮影するため[3]広島県福山市沼隈半島沼隈郡沼隈町(現・藤江町)みろくの里に総工費3億円を費やして江戸時代の大規模な宿場町のオープンセットを建設した[3][4]。当地の雑木林を切り倒し、大型ブルドーザーで堀搾作業を行い、6ヶ月かけ、延べ3000人で40棟の建物を建設した[3]。何年も風雪に耐えてきた感じを出すため、建物に使った木材は一本一本焼き、塗料で汚し、小刀で丸みを入れるなど凝りに凝った[3]


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