座り込み
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この項目では、抗議行動について記述しています。「座り込み」の語義については、ウィクショナリーの「すわりこみ」の項目をご覧ください。

座り込み(すわりこみ、英語: sit-in, sit-down)とは、抗議相手に要求を飲ませるため、抗議の意を抗議相手または第三者に示すため、もしくは抗議相手に損害を与えるために、座ってその場に留まること[1]。労働争議や公民権運動などで用いられはじめ、現在では、政治的な場からスポーツの場におけるまで多様な場で用いられている手法である。非暴力の直接行動の一つ[2]
歴史
ストライキとしての座り込み

シット・ダウン・ストライキ(sit-down strike)と呼ばれる、労務の提供を拒否するストライキの一形態としての座り込みがある。生産拠点に労働者組合員らが座り込んで、直接的な攻撃をかける闘争。組合員の団結力を固めたり、団体交渉のテーブルに会社側を着かせたりするために効果があるとされる[3]。アメリカでは、1936年1月オハイオ州アクロンの全米ゴム労働組合(英語: United Rubber Workers)が組合の公認を求めてグッドイヤー社に対し行った労働争議が初めとされる[4]。その後、産業別組織会議(英語: Congress of Industrial Organizations)の議長ジョン・L.ルイス(英語: John L. Lewis)の下で拡大した座り込み運動はアメリカの産業界に甚大な影響を与えた[5]。その他、ドイツ・フランス・イギリスでも同様にシット・ダウン・ストライキが行われたが、当時は違法であるとして激しい批難をうけ、その後も合法性について論争は続いた。また、シット・ダウン・ストライキ自体が合法であっても、企業の生産手段である会社や工場を離れた私宅や公道での坐り込みは労働争議の文脈では合法性を欠くことになる[6]

日本での職場占拠型の労働争議の事例のうち古いものとしては、1925年末の愛媛県の別子鉱山での争議が挙げられる。組合の決議した不当解雇反対、臨時雇制度の反対などの要求を会社に申し入れるため支配人との面会を求め、それが拒否され続ける中で、12月8日に惣開鉱業所前で座り込みが行われた[7]。翌日会社側は退去を求め、座り込みを排除しようとして、組合代表との間にトラブルが起き、警察によって解散命令が下された。

ちなみに、日本でストライキが法的に団体行動権として認められたのは1945年の労働組合法の成立によってである[8]
公民権運動の中での座り込み

法的にアメリカ合衆国の人種差別の終焉となった1964年の公民権法制定および白人以外の選挙権を認めていなかった投票権法の改訂など、多くの人種の壁が取り除かれる過程で、アメリカでは一連の座り込み運動が行われた。

Fellowship of Reconciliation (FOR)および人種平等会議(CORE)は早くも1940年代には座り込みを行なっていた。アーネスト・フィッシャーはバーニス・フィッシャーを「レストラン座り込みの母」と評した[9]。1939年8月、アフリカ系アメリカ人弁護士サミュエル・ウィルバート・タッカーは当時差別的であったバージニア州アレクサンドリアの図書館での座り込みを企画した[10]。産業別労働組合会議(CIO)の労働者代表数名は1947年、オハイオ州コロンバスで行われた会議で短期間ではあったが自然発生的にランチ・カウンターでの座り込みを行なった[11]

初期の頃に行われた人種関連の座り込みの1つとして、1939年9月、ニューヨークのシャック・サンドイッチ・ショップの人種的に不平等な雇用に対しFather Divine とInternational Peace Mission movement の信者達は食堂労働組合302区と共にプロテストに参加した。1939年9月23日木曜日のニューヨーク・タイムズによると[12]、最もストライキが集中する41番街とレキシントン通りの角のレストランに75から100名が現れ店内に入り、5セントのコーヒーを買って客として座り込んだ。そのためその他の客は席につくことができなかった[13]

メルヴィン・B・トルソンとジェイムス・L・ファーマー・ジュニアの支援により、ウィリー大学とビショップ大学の学生はテキサス州マーシャルハリソン郡庁舎のロタンダでテキサス州初の座り込みを企画。この座り込みはテキサス州で最も古い白人市民会に直接挑戦するもので、結果的に州内のジム・クロウ法を覆し、1950年のSweatt v. Painter の評決により大学院生間の人種差別撤廃となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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