度遼将軍
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度遼将軍(とりょうしょうぐん/たくりょうしょうぐん)は、中国前漢以降の官職である。渡遼将軍(遼水を渡って北族を討つ将軍の意)とも書かれる。

昭帝元鳳3年(紀元前78年)、遼東の烏桓が反乱した際に中郎将范明友が任命され、烏桓を討ったことに始まる。前漢においては范明友が解任された後は確認できない。

後漢明帝永平8年(65年)、降伏した南匈奴で二心を抱く者を監視し備えるために「行度遼将軍事」が置かれ、五原郡曼柏県に駐屯することとされた。安帝元初元年(114年)には辺境に不安が多いことから正式に常設の官とされた。秩禄は二千石、銀印青綬であり、属官に長史、司馬2名が置かれた。
歴代度遼将軍
前漢

范明友前78年 - 前66年

後漢

呉棠
65年 - 73年

来苗(73年 - 76年

耿秉(76年 - 82年

ケ鴻(82年 - 90年

皇甫?(90年 - 94年

朱徽(94年 - 95年

?奮(95年 - 98年

王彪(98年 - 109年

梁?(110年 - 111年

耿?(111年 - 114年

ケ遵(114年 - 121年

耿?(121年 - 122年) - 再任

法度(122年 - 124年

傅衆(125年

?参(126年 - 129年

宋漢(129年 - 133年

耿曄(133年 - 140年

馬続(140年 - 145年

呉武(145年 - ?)

陳亀(? - ?)

?ロ(? - ?)

李膺156年 - 159年

皇甫規(163年

張奐(163年 - 166年

皇甫規(166年 - 167年) - 再任

橋玄(? - ?)

徐淑(? - ?)

賈j189年 - ?)

耿祉(? - ?)

鮮于輔200年 - ?)

関連項目

護烏桓校尉

護羌校尉

使匈奴中郎将

参考文献

班固著『漢書』巻7昭帝紀、巻19上百官公卿表上

范曄著『後漢書』孝明帝紀

司馬彪著『続漢書』(『後漢書』合刻)百官志四


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