序の舞
Appassionata
監督中島貞夫
脚本松田寛夫
出演者名取裕子
音楽黛敏郎
撮影森田富士郎
編集市田勇
製作会社東映京都撮影所
配給東映
公開1984年1月14日
上映時間145分
製作国 日本
言語日本語
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『序の舞』(じょのまい)は、1984年の東映京都製作・東映配給の日本映画。名取裕子主演・中島貞夫監督。
上村松園の生涯をモデルとした宮尾登美子の同名小説の映画化[1][2]。明治の世、しかも古い慣習を尊ぶ古都を舞台に、未婚の母として強く生き抜いた女流画家の波乱の生涯を描く[3]。 貧しい農家の9歳の少女・勢以が、京都で葉茶屋『ちきりや』を営む島村家の養女となったのは安政5年(1858年)のことだった。ひたむきに茶葉の技術や店のことを教わる勢以だったが20歳の頃に養父母を相次いで亡くし、翌年婿を取って結婚するも二児の母となった直後26歳で未亡人となる。その後勢以は懸命に店を守って2人の子供を育て、小学校を卒業した次女・津也は恩師・西内太鳳に勧められて名のある画家・高木松溪の絵画塾に通い出す。 明治23年(1890年)16歳となった津也は、師匠である松溪の指導を受けて絵の腕を上げて絵画展で賞をもらい、勢以と姉の3人で喜びを分かち合う。師匠から「松翠」の雅号を授かり、天才少女として名を馳せる。そんな中太鳳が絵画の勉強のため数年間ヨーロッパ留学することになり、津也は寂しさを紛らわせるように絵画の勉強に没頭する。翌年のある日松溪の熱のこもった指導を受けた津也は、師匠に誘われて料亭で食事をした後妻帯者である彼と強引に男女の関係を結ばされてしまう。しかし絵描きとして有名な松溪は展覧会の審査員を任される事があり、彼を拒否することは絵描きを辞めることに等しく、津也はその後も彼と不倫関係を続けることに。 明治26年、津也は国が主催の絵画展で賞を取り一人前の画家として認められる存在となり、同じ頃姉が嫁入りして勢以と津也は2人暮らしになる。それからしばらくして独身にもかかわらず津也の妊娠が発覚し、勢以から問いただされて「松溪と不倫してできた子」と告白する。母は半狂乱になり絵を学ばせたことを後悔し、知人に頼んで津也を人里離れた他所の家に住まわせ、数ヶ月後ひっそりと出産した赤子を里子に出す。 出産後津也はそのまま失踪し、勢以は心配するも心を鬼にして娘が絵を辞めるまでちきりやの敷居を跨がせないと先祖に誓う。数日後、太鳳が留学から帰国して絵画展に出品された彼の絵が評判となり、そのことを知った津也は彼が暮らしている長浜の寺に向かう。津也は太鳳の弟子を志願すると松溪の絵画塾を辞めた理由を聞かれ、師匠との間に起こったことを正直に話して弟子になることを許される。津也は太鳳のもとで絵の修行を続けて明治29年の展覧会で松溪の絵を抜いて彼女の絵が一等の評価を得て、ある商人から祝いの席に招かれる。 しかしその祝の場には松溪がおり、騙されたことに気づく津也だったが覚悟を決めて数年ぶりに師匠に会うと、妻を亡くした彼に気を許して体の関係を持ってしまう。後日、絵画展の審査員を任された松溪と太鳳が鉢合わせ、その宴の席で「弟子の津也を横取りした」と言う松溪と、彼女から事情を聞いた太鳳が口論となってしまう。松溪から「津也は今でもわしの女。その証拠にあいつのお腹には俺の子が宿ってる」と打ち明けられた太鳳は、それが事実だと分かり翌日彼女を破門にしてしまう。 絶望した津也は、海辺で堕胎薬を飲み中絶しようとする。そこへ母親の勢以がかけつけ、家で産めばよいと言い、母子は和解する。出産した津也とちきりやは世間から冷たく扱われるが、勢以は堂々としていた。3か月後、太鳳は破門を解き、津也は画壇に復帰する。 大正7年、第一回文展の会場には、松翠の絵画「母子」、そしてそれを呆然として見上げる松溪の姿があった。
あらすじ
キャスト
島村勢以(せい)
演 - 岡田茉莉子(少女時代:小林綾子)葉茶屋(茶葉を売る店)の養女となり、その後婿を取るも未亡人となり2人の娘を抱えながら1人で店を切り盛りし育て上げる。子供の頃から真面目でひたむきな性格で努力家な反面、頑固で気の強い性分を持ち合わせている。また、成長する過程で島村家及びちきりやの名に恥じぬ行動を心がけるようになる。娘たちが成長してからは、2人の行動に一喜一憂の日々を過ごす。
島村津也(つや)
演 - 名取裕子(少女時代:野口一美
島村志満(しま)
演 - 水沢アキ(子供時代:高橋美樹、少女時代:杉沢美紀
1982年の『鬼龍院花子の生涯』の大ヒットで、東映は“女性文芸大作路線”の手応えを掴んだことから[4][5]、1983年の『陽暉楼』に続き、宮尾登美子原作ものとして企画が挙がった[4][5]。五社英雄監督の高知ものは、東映の得意とするやくざや女郎の世界だったが、本作は全然色が違う[5]。最初は主演・佐久間良子、監督は蔵原惟繕を予定していた[6]。蔵原は悪条件の中、「青春の門二部作」を東映で撮ってもらったことからの抜擢だったが、蔵原に『南極物語』の海外キャンペーンや映画祭などで忙しいと断られた[6]。蔵原には代わりに『ぼたん雪』という企画も打診したが、こちらも製作されなかった[6]。1983年8月に中島貞夫が監督に抜擢され[5][6]、1984年の正月映画で大作一本立て興行になることが決まった[6]。初めて女性映画を演出する中島は「場違いという感じもするが、女性を描きたくて映画界に入ったので、この映画と心中するつもりでがんばりたい」と意欲を燃やした[3]。映画関係者からは、東映は1984年の正月は、松坂慶子・深作欣二コンビで『ひとひらの雪』をやるのではと認識されていた[6]。 『序の舞』は映画と合わせ、テレビドラマ、舞台でも製作された[4]。公開はテレビドラマ→映画→舞台の順。 上村松園の子・上村松篁が製作当時、京都画壇の中心的存在で、松篁自身は映画化に反対でなかったとされるが[5]、松園の孫から映画化を反対された[5][7]。宮尾登美子の原作でも実名を使っておらず、あくまでモデルであるため、東映としては朝日新聞に連載された原作権を元に映画を作ると突っぱねた[7]。訴訟問題が起きたとしても仕方ないと考えていたが、映画の中で上村松園の絵を使わなくてはリアリティが出ず、実際の絵はライトを当てると痛むため、模写になるが、あまりいい加減な絵は使えないから著作権の問題もあり、どうしても遺族から許可を取らなければならない必要があった[5]。東映での映画化に警戒心も抱かれ、交渉は膠着状態になり、新たな交渉相手として松園の孫娘の亭主で、当時の国税庁長官・福田幸弘が現れた[7]。さらに堅そうな肩書の人物が出て来て、難航が予想されたが福田が折紙つきの映画狂で融通が利き、映画化が成った[7]。 脚本の松田寛夫は監督が未決定の時点で、シナリオを書き始め、1983年8月に完成[5]。この後監督が中島貞夫に決まり、1983年9月一杯かかり松田の手を離れた[5]。『シナリオ』1984年4月号に掲載された松田の決定稿とは撮影台本は異なる[5]。原作は津也こと上村松園の母、つまり勢以こと仲子の物語であるが[5]、映画としては若い女がメインの話がよく[5]、岡田茂東映社長からは「エロだけでいける」等と指示され[5][8]、松田寛夫は脚本に苦労したとされる[5]。
トラブル
脚本