庄司薫
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庄司 薫
(しょうじ かおる)
誕生福田 章二
(1937-04-19)
1937年4月19日(87歳)
日本東京府東京市
(現・東京都豊島区
職業作家
国籍 日本
活動期間1958年 -
ジャンル小説
代表作『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969年)
主な受賞歴中央公論新人賞(1958年)
芥川龍之介賞(1969年)
デビュー作『喪失』(1958年)
配偶者中村紘子
影響を受けたもの

堀辰雄
丸山眞男
J・D・サリンジャー
野崎孝

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庄司 薫(しょうじ かおる、1937年4月19日 - )は日本小説家。本名は福田章二(ふくだ しょうじ)。
経歴

三省堂専務の息子として東京都豊島区東池袋に生まれ育つ。幼い頃から文学書に親しんで育つ[1]太平洋戦争中は埼玉県秩父に疎開していた。東京都立日比谷高等学校の同級生に塩野七生古井由吉尾高修也[2]、2級上に坂上弘がいた。高校時代は芸術派の総帥のつもりだった[3]。高校卒業後、1年間の浪人生活を送る。1957年に東京大学文科二類(現在の文科三類に相当)に入学[4]。同年「蝶をちぎった男の話」を東京大学教養学部学友会機関誌『学園』第15号に発表。

東京大学教養学部文学研究会機関誌『駒場文学』第9号(1958年4月)に発表した『白い瑕瑾』を改題改稿した『喪失』にて第3回中央公論新人賞を受賞[5][6]、同作品が『中央公論』1958年11月号に掲載される。このとき選考委員の伊藤整武田泰淳からは絶賛されたが、三島由紀夫から疑念を表明され、江藤淳から評論「新人福田章二を認めない」(『新潮1959年1月号)で酷評された[7]。この後、『新潮1959年2月号に掲載された新人作家の座談会「僕ら文学するもの」に出席[8]。1959年春、「封印は花やかに」を書き、『中央公論』小説特集号に発表。同年秋、作品集『喪失』を中央公論社から上梓。

教養学部から法学部に傍系進学し[9]、第3類(政治コース)を卒業。法学部時代の恩師に丸山眞男がいる。

1960年、『文學界』7月号に発表した『輕やかに開幕』を最後に数年間筆を絶ち、謎の多い空白期間を過ごす(庄司の言葉では「総退却」)。エジプト学に沈潜していたとも[10]、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}株で生活していたとも言われている[要出典]。

1966年、恩師丸山真男を囲む集まり「60の会」の小さなタイプ印刷の機関誌「60」に10枚ほどの小説を発表、この会の内輪で好評を博す[11]東大闘争のあった1969年、初めて庄司薫の名義で『赤頭巾ちゃん気をつけて』を発表(『中央公論』5月号)[12]。三島由紀夫たちに才能を認められ、第61回芥川賞を受賞、同年8月に中央公論社から単行本として刊行。この作品は、単行本と文庫本を併せて発行部数160万を超えるベストセラーとなった。また『中央公論』8・9・10月号に『さよなら快傑黒頭巾』を連載(同年11月、中央公論社から単行本として刊行)。同年、『文學界』9月号に『恐竜をつかまえた』を発表。『新潮』12月号に『アレクサンダー大王はいいな』を発表。

1970年、『中央公論』新年号から6回にわたり『白鳥の歌なんか聞えない』を連載。『婦人公論』4月号から1年間にわたり自伝風エッセイ『狼なんかこわくない』を連載。同年5月、作品集『喪失』の新版を中央公論社から刊行。

1971年2月、『白鳥の歌なんか聞えない』を中央公論社から刊行。同年12月、『狼なんかこわくない』を中央公論社から刊行。

1973年6月、エッセー集『バクの飼主めざして』を講談社から刊行。同年、『喪失』『赤頭巾ちゃん気をつけて』『白鳥の歌なんか聞えない』『さよなら快傑黒頭巾』『狼なんかこわくない』を中公文庫から刊行。敬愛する林達夫の『共産主義的人間』(中公文庫)に解説文を寄せる。

1974年9月、ピアニスト中村紘子と結婚。演奏ツアーなどにより中村が長期不在となったさい中村の愛猫を庄司がたびたび預かり面倒を見るなどしていたことから交際を深め結婚に至った。子はないが結婚以降変わらぬよい夫婦仲とのこと。一説には後年中村がエッセイ・小説を上梓の際、庄司による代筆を疑う声もあったが憶測の域を出ない。

1975年、『中央公論』新年号から24回にわたり『ぼくの大好きな青髭』を連載。1977年7月、『ぼくの大好きな青髭』を中央公論社から刊行。『赤』『黒』『白』と、この『青』を加えた四作は、現役あるいは卒後の都立日比谷高生である「庄司薫」を主人公にしたいわゆる「四部作」とされる。これらのうち東宝青春路線として1970年代以降、『赤』(岡田裕介・森和代・中尾彬山岡久乃など主演)と『白』(岡田裕介・本田みちこ加賀まりこ細川俊之など主演)が映画化され、また、『白』はNHKでドラマ化(荒谷公之仁科明子など主演)された。その他、本名の福田章二原作『輕やかに開幕』の映画版で、『童貞』(1975年重田尚彦五十嵐淳子夏木陽介竹井みどり大滝秀治など主演)がある。

1976年、『』12月号に武田泰淳への追悼文「武田さんの思い出」を発表。

1978年11月、エッセイ集『ぼくが猫語を話せるわけ』を中央公論社から刊行。

1979年、『新潮』6月号にエッセイ「猫」を発表。同年、ウォークマン発売の後押しをしている。妻の中村紘子は「盛田さん(ソニー社長盛田昭夫)とうちの主人は当時しょっちゅう一緒にゴルフに行っていたんですが、家が近いものですから朝同じ車で行くんですね。そしたら盛田さんが主人にウォークマンの試作品を見せて「こういうのを発案したんだけど、会社の全員がこんなの売れませんって言って反対してる。だけど僕はこれいいと思うんだけどな」っておっしゃったんですよ。それでうちの主人に感想を求めてきたので「これいいじゃないですか。僕はこれすごくいいと思います」ってうちの主人が申し上げたのに勇気づけられて、みんなの反対を押し切って発売したら大ヒットになったんですよ」[13]と語っている。

1980年、5月刊行の文春文庫の書き下ろしアンソロジー『読書と私』にエッセイ「『椿姫』以来」を執筆。同年10月、『ぼくの大好きな青髭』を中公文庫から刊行。同年12月、『東京新聞』にエッセイ「ビタミンC」を発表。

1981年11月、『ぼくが猫語を話せるわけ』を中公文庫から刊行。

小説家としては1977年の『ぼくの大好きな青髭』を最後に沈黙しているが、以後も部屋に籠っているわけではなく、中村のコンサート後のパーティなどにも顔を出していることが伝えられている[14][15]。日頃は趣味のを嗜み、各出版社の編集者とは仕事抜きの交際を続けている[15]。中村は2時間約200万円の公演を年間30-40回こなすと言われているがその稼ぎに庄司は寄りかかることなく、1985年からは東京都港区三田の自宅マンションに次々と別の抵当権を設定し、バブル期の不動産価格の高騰に乗って借入れを増大[15]1985年から2006年までで総額13億7000万円の資金を借入れ、不動産や株などに投機していたが、2006年以後に借金(元利合計で借入金の倍額程度)を完済[15]。夫妻の部屋の登記簿を見た萬場友章弁護士から「バブル崩壊で資産価値が目減りし、多くの個人投資家が担保物権を失うなかで、この夫婦は損をせずに巧みに売り抜けている。


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