音韻学
字音構造
声母 + 韻母 / 声調
韻母 (介音+韻腹+韻尾)
韻 (韻腹+韻尾/声調)
韻摂 (韻腹+韻尾)
声母: 五音 清濁 三十六字母
介音: 等呼 四呼
韻腹: 内外転 十六摂
韻尾: 陰声韻・陽声韻・入声韻
声調: 四声八調 平仄 舒促
上古音
- 詩経音系 -
古無軽唇 古無舌上 古無正歯
『広韻』(こういん、旧字体:廣韻)は、北宋の大中祥符元年(1008年)に陳彭年(ちんほうねん)らが先行する『切韻』『唐韻』を増訂して作った韻書。正式名称は『大宋重修広韻』。
『切韻』系韻書の一つであり、清代に再発見されて以降、古音を知るための重要な書として利用されてきた。またベルンハルド・カールグレンによる中古音の復元にも利用された。『広韻』以前の切韻系韻書は長く失われていたが、第二次大戦後に王仁?『刊謬補欠切韻』の完本が発見された。 北宋の真宗のとき、従来の韻書に誤りが多く、科挙の標準として差し支えがあったため、勅命によって『広韻』が作られた。 『広韻』巻首の記載によれば26,194字を収め,注解191,692字に至る。ただしこれはひとつの字が複数の音を持つときに重複して数えており、異なり字数は16,000字ほどであるという[1]。5巻からなり、韻目は平声57韻(上平声28韻、下平声29韻。平声のみ上下に分けるのは編纂上の都合にすぎず、音韻的には他の三声と変わらない)、上声55韻、去声60韻、入声34韻の合計206韻である。しかし、それと同時に隣り合う2つないし3つの韻について同用、つまり押韻しても構わないという規定も設けられており、同用をひとつにまとめると平声31・上声30・去声33・入声19の113韻になる(ただしこの同用規定には『広韻』編纂時より後の変更がはいっており、本来は平声32・上声32・去声34・入声19の117韻であったという[2])。これは平水韻の106韻とそれほど変わらない。 もとの『切韻』より13韻多いが、その内訳は である。最後のものは8世紀はじめの王仁?による追加であり、それ以外はひとつの韻を開合で分けただけで音節の種類自身が増えたわけではないので(しかも同用なので分けたもの同士で押韻しても構わない)、本質的な変化ではない。 反切に使われている漢字は、諱を避けるなどの特別な理由があるものを除いて基本的に『切韻』のものを踏襲しており、そのために『広韻』を『切韻』の代用として使うことができる。しかし『切韻』の反切は『広韻』が作られた当時の音とは乖離していたため、各巻の末尾に「新添類隔更音和切」として、改訂した反切を載せている。そのほとんどは『切韻』の時代には区別のなかった重唇音と軽唇音に関するものである。たとえば支韻「卑」を「府移切」としているが、巻末では「必移切」に直している。 訓釈は『切韻』に比べるとかなり長くなっている。しかし固有名詞や姓の由来に関する説明に偏っているきらいがあり、『集韻』の序で批判されている[4]。 巻末に「双声重韻法・六書・八体・弁字五音法・弁十四声例法・弁四声軽清重濁法」を載せる。 『広韻』の反切はもとの『切韻』に基本的に従ってはいるものの、ところどころおかしな箇所がある。たとえば脂韻「尸」が「式之切」になっているが、「之」は之韻の字であり、正しくは「式脂切」でなければならない。これは『広韻』の時代にすでに字によっては脂韻と之韻がどちらかと同音になっていた場合があったための誤りである。また、各韻の終わりの方に例外的な反切が集中するが、これらはもとの『切韻』に対して新たに追加したための例外が集中してなったものである(参照:切韻考 『広韻』は明代には忘れ去られていたが、顧炎武が再発見してその重要性が注目されるようになった。しかし顧炎武が発見した明内府本は節略本であり、顧炎武の没後にようやく本来の『広韻』が発見された。南宋刊本に監本である高宗本・寧宗本と[5]私家版である南宋巾箱本および「鉅宋広韻」と題する本がある。
成立
内容
真韻に開口と合口の両方が属していたのを2つに分けたため、「諄・準・?・術」が増加[3]
寒韻に開口と合口の両方が属していたのを2つに分けたため、「桓・緩・換・曷」が増加
歌韻に開口と合口の両方が属していたのを2つに分けたため、「戈・果・過」が増加
厳韻に対応する上声と去声の韻がなかったのを追加したため「儼・?」が増加
問題点
テキスト
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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