広隆寺
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広隆寺

上宮王院
所在地京都府京都市右京区太秦蜂岡町32
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分55.80秒 東経135度42分26.31秒 / 北緯35.0155000度 東経135.7073083度 / 35.0155000; 135.7073083座標: 北緯35度0分55.80秒 東経135度42分26.31秒 / 北緯35.0155000度 東経135.7073083度 / 35.0155000; 135.7073083
山号蜂岡山
宗旨真言宗単立
本尊聖徳太子(上宮王院本尊)
創建年推古天皇11年(603年
または推古天皇30年(622年
開基秦河勝
別称蜂岡寺、秦公寺、太秦寺
札所等聖徳太子霊跡第24番
文化財木造弥勒菩薩半跏像、木造阿弥陀如来坐像ほか(国宝
絹本著色三千仏図、木造薬師如来立像、鉄鐘ほか(重要文化財
法人番号1130005001731
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広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦蜂岡町にある真言宗単立寺院山号は蜂岡山。本尊聖徳太子。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)[1]、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる[2]渡来人系の氏族である秦氏氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院である。国宝弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は京都三大奇祭として知られるが、現在は不定期開催となっている。
歴史楼門北野廃寺跡(京都市北区

広隆寺は東映太秦映画村で有名な太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され(後述のように北野廃寺跡に比定されている)、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰と共に聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂にあたる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一つとして挙げている。

日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦河勝が建立した秦氏氏寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、明確にされていない点も多い。

秦河勝の祖となる秦氏は、中国)から帰化した漢民族系の人々といわれ、葛野郡(現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、明治時代の神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。

『日本書紀』によれば、推古天皇11年(603年)に聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝がこの仏像を譲り受けて「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』(承和縁起)や寛平2年(890年)頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』冒頭の縁起には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。『日本書紀』と『広隆寺縁起』とでは創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた別の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

蜂岡寺の創建当初の所在地について、『承和縁起』には当初「九条河原里と荒見社里」にあったものが「五条荒蒔里」に移ったとある。確証はないが、7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野上白梅町(かみはくばいちょう)の北野廃寺跡が広隆寺(蜂岡寺)の旧地であり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転(ないし2寺が合併)したとする説が有力である。

一方、『聖徳太子伝暦』には太子の楓野別宮(かえでのべつぐう)を寺にしたとする別伝を載せる。推古天皇12年(604年)、聖徳太子はある夜の夢に楓の林に囲まれた霊地を見た。そこには大きな桂の枯木があり、そこに五百の羅漢が集まって読経していたという。太子が秦河勝にこのことを語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野(かどの)であるという。河勝の案内で太子が葛野へ行ってみると、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえた。太子はここに楓野別宮を営み、河勝に命じて一寺を建てさせたという。この説話は寺内の桂宮院(けいきゅういん、後述)の由来と関連して取り上げられる。

なお、広隆寺(蜂岡寺)が平安京遷都の際に移転した理由として、朝廷が寺院の施設を官寺として接収したからとする説もある。平安時代の国史に登場する常住寺[3][4]もしくは野寺[5][6]と呼ばれる官寺について、遷都直後に平安京内にあった唯一の既存の寺院である蜂岡寺を接収・再整備したものだと考えられている。その背景として、平安京における東寺西寺の建立が予定よりも大幅に遅れて、朝廷が必要とする仏事に対応できなかったからだとされている。ただし、弘仁年間に東寺と西寺が整備されるとその役割は縮小していったと考えられている[7]

広隆寺は弘仁9年(818年)の火災で全焼し、創建当時の建物は残っていない。承和3年(836年)に広隆寺別当(住職)に就任した道昌空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。その後、久安6年(1150年)にも火災で全焼したが、この時は比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われている。現存する講堂(重要文化財)は、中世以降の改造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられている。

寺には貞観15年(873年)成立の『広隆寺縁起資財帳』(国宝)と、寛平2年(890年)頃の『広隆寺資財交替実録帳』(国宝)が伝わり、9世紀における広隆寺の堂宇や仏像、土地財産等の実態を知る手がかりとなる。『実録帳』は、『資財帳』の記載事項を十数年後に点検し、異動を記したものである。『資財帳』は巻頭の数十行が欠失しているが、『実録帳』の記載によってその欠落部分を補うことができる。

江戸時代に入ると、寛文3年(1663年)の霊元天皇の即位をきっかけに後水尾法皇によって制度化された「七大寺」の1つに加えられ、国家的な祈祷の一翼を担うことになった[8]

1995年平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災では京都市でも震度5の強い揺れを観測した。この震災では兵庫県神戸阪神地域や淡路島の被害が最も大きかったことで、大阪府や京都府などの他の近畿の各県はそれほど注目されなかったが、広隆寺でも像が折れるなどの被害を受けた。

北野廃寺跡出土 塑像残片
東京国立博物館展示。

(左から)北野廃寺跡出土 軒丸瓦・塑造仏頭、広隆寺出土 軒丸瓦
京都市考古資料館展示。

弥勒菩薩像の由来

広隆寺には「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の弥勒菩薩半跏像があり、ともに国宝に指定されている。


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