広野功
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広野 功基本情報
国籍
日本
出身地徳島県徳島市
生年月日 (1943-10-16) 1943年10月16日(80歳)
身長
体重183 cm
88 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション内野手外野手
プロ入り1965年 ドラフト3位
初出場1966年5月10日
最終出場1974年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


徳島県立徳島商業高等学校

慶應義塾大学

中日ドラゴンズ (1966 - 1967)

西鉄ライオンズ (1968 - 1970)

読売ジャイアンツ (1971 - 1973)

中日ドラゴンズ (1974)

監督・コーチ歴


中日ドラゴンズ (1978 - 1983)

ロッテオリオンズ (1984 - 1986)

西武ライオンズ (1988 - 1996)

千葉ロッテマリーンズ (1997 - 2000)

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広野 功(ひろの いさお、1943年10月16日 - )は、徳島県徳島市出身の元プロ野球選手内野手外野手)・コーチ監督解説者評論家。実兄は元プロ野球選手の広野翼
経歴
プロ入り前

徳島商業では2年次の1960年左翼手として甲子園に春夏連続出場。春の選抜では2回戦で滝川高に敗退するが、夏の選手権は2回戦で米子東高のエース・宮本洋二郎を打ち崩すなど順調に勝ち進む。しかし準決勝で静岡高に敗れた。1961年夏はエース・妹尾幸一(南海)を擁し南四国大会決勝に進むが、高知商高橋善正に抑えられ、9回裏0-1のサヨナラ負けで甲子園には届かなかった。他のチームメイトに二塁手多田勉広島)がいた。

高校卒業後は1962年慶應義塾大学へ入学し、東京六大学リーグでは在学中に3度の優勝を経験。1年上のエース・渡辺泰輔を擁し、2年次の1963年には大学日本選手権でも優勝を経験。2年上には一塁手としてベストナインに3回選出された西岡浩史がおり、その後継として3年次の1964年春季からレギュラーに定着。同年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に一塁手・4番打者として起用された。4年次の1965年秋季で4本塁打を放ったほか、同年にマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会(東京六大学選抜チームが日本代表)では3本塁打を放ち、日本の優勝に貢献。リーグ通算47試合出場、165打数45安打、打率.273、8本塁打、23打点を記録。通算8本塁打は長嶋茂雄と並ぶ当時のリーグタイ記録であり、一塁手としてベストナインに2回選出されたほか、大学同期に外野手鈴木義信がいる。
中日時代

大学卒業時には、アジア選手権などの国際経験を経て野球留学を本気で考えており、前田祐吉監督の伝手で鈴木惣太郎を紹介され、鈴木の人脈からロサンゼルス・ドジャースへの入団の話が持ち上がる。しかし、父親の反対もあり話は破談となった[1]

1966年のドラフト第1期生(3位)で中日ドラゴンズに入団。入団時には将来の幹部候補生として「現役引退後も中日グループで面倒を見るからトレードはあり得ない」と約束されていたという[2]ジム・マーシャルが抜けた一塁手の最有力候補として期待がかけられていたが、オープン戦右肩脱臼。再起不能とまで言われたが、5月末には一軍に合流し、3番打者・一塁手に定着。100試合出場で打率.277・13本塁打を記録する。8月2日の巨人戦(中日)では堀内恒夫から逆転サヨナラ満塁本塁打を放っている[3]

1967年は7月から外野手も兼ね、初めて規定打席に達し、リーグ26位の打率.233ながら19本塁打を記録。この年は入団2年目ながら、ドラゴンズ選手会の副会長も務めていた[2]
西鉄時代

1968年には田中勉との交換トレードで西鉄ライオンズに移籍。20勝できる投手が欲しかった中日側の希望によるトレードであり[4]、後継の一塁手として千原陽三郎が台頭している事情もあった。前述した、入団時の「トレードはない」との約束を反故にする形となったが、サンケイデーブ・ロバーツを交換相手に田中を狙っているとの情報を察知した中日は、将来復帰させるからと広野を説得して送り出している[5]。同年は開幕から4番打者・左翼手として起用されるが、6月初めに故障欠場し、8月には復帰するも規定打席には届かなかった。

1969年には不調の高木喬に代わり一塁手に回って復活。2度目の規定打席(31位、打率.232)にも到達し、自己最多の20本塁打を放ったほか、自身唯一のオールスターゲーム出場も果たす。

1970年黒い霧事件で野球に嫌気がさして不調に陥る[4]。一塁手として高木やカール・ボレスと併用されるが、打率.188と低迷した。
巨人時代

1971年高橋明田中章梅田邦三と広野・浜村健史の3対2の交換トレードで、読売ジャイアンツに移籍。当時の西鉄監督・稲尾和久が、巨人監督の川上哲治に「投手が欲しい」と打診したところ、川上から交換条件として広野の名が上がったため移籍に至った[2]。なお、広野の巨人への移籍が決まった際には、将来中日に復帰させる前提で西鉄に送り出したはずの広野を巨人に持って行かれたとして、広野の交換要員であった田中が黒い霧事件で引退(実質的に追放)していたこともあって、中日に対してファンから抗議が相次いだという[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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