この項目では、兵庫県西宮市の旧官幣大社について説明しています。その他の廣田神社については「広田神社 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
廣田神社
拝殿
所在地兵庫県西宮市大社町7-7
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度45分10.7秒 東経135度20分23.9秒 / 北緯34.752972度 東経135.339972度 / 34.752972; 135.339972 (廣田神社)
廣田神社(ひろたじんじゃ、広田神社)は、兵庫県西宮市大社町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 日本書紀に当社の創建のことが書かれている[1]。神功皇后の三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。皇后の留守の間に忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛
祭神
主祭神 - 天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと))。伊勢神宮内宮の第一別宮荒祭宮祭神と同体。
脇殿神 - 住吉大神、八幡大神、武御名方大神、高皇産霊神。
歴史
朝廷より篤い崇敬を受け、貞観10年(868年)に従一位に叙せられた。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、白河天皇の時代には二十二社の一社とされ、たびたび奉幣勅使の派遣があった。平安時代後期より、神祇伯白川家との関係が深く、代替わりのごとに当社に参詣していた。中世には和歌の神として信仰されるようになり、社頭にて何度か歌合せが行われている。
元暦元年(1184年)、源頼朝が当社に平氏の討伐を祈願して淡路国・広田荘を寄進している。慶長9年(1604年)には豊臣秀頼によって大規模な社殿の改築が、末社の戎社(現・西宮神社)共々行われている。
当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座したが、水害のため享保9年(1724年)に江戸幕府将軍の徳川吉宗により廣田山の地に遷座した。
1871年(明治4年)には官幣大社に列格した(兵庫県で最初。伊弉諾神宮は1931年(昭和6年)に列格)。かつて「向か津峰」と呼ばれた六甲山全山は、元は廣田神社の社領であったという[2]。六甲山大権現を古くからの祭神とする六甲山神社(むこやまじんじゃ石の宝殿=現廣田神社の摂社)と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)がかつての奥宮と考えられる。