広田弘毅
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広田弘毅

廣田弘毅

日本政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}廣田(ひろた) 弘毅(こうき)
内閣総理大臣在任時(1936年)
生年月日1878年2月14日
出生地 日本 福岡県那珂郡鍛冶町
(現:福岡市中央区
没年月日 (1948-12-23) 1948年12月23日(70歳没)
死没地 日本 東京都豊島区
巣鴨拘置所
出身校東京帝国大学法学部卒業
前職駐箚ソビエト連邦特命全権大使
称号勲一等旭日大綬章
法学士(東京帝国大学)
配偶者広田静子
子女広田弘雄(長男)
広田忠雄(次男)
広田正雄(三男)
菅野千代子(長女)
広田美代子(次女)
広田登代子(三女)
サイン
第32代 内閣総理大臣
内閣廣田内閣
在任期間1936年3月9日 - 1937年2月2日
天皇昭和天皇
第45・49代 外務大臣
内閣斎藤内閣
岡田内閣
廣田内閣第1次近衛内閣
在任期間1933年9月14日 - 1936年4月2日1937年6月4日 - 1938年5月26日
貴族院議員(勅選)
在任期間1937年5月31日 - 1945年12月13日
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広田 弘毅(ひろた こうき、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:廣田 弘毅、1878年明治11年〉2月14日 - 1948年昭和23年〉12月23日)は、日本外交官政治家勲等勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう、旧字体:丈󠄁太カ)。

外務大臣(第49505155代)、内閣総理大臣第32代)、貴族院議員などを歴任した。石屋の倅から立身出世して位を極めたが、戦後の極東軍事裁判文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった。
生涯
生い立ち「廣田弘毅先生 生誕之地」の石碑

1878年明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれた。初名は丈太郎(じょうたろう)。徳平は箱崎農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。亀山上皇像の銘板

今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている(左画像参照)。『広田弘毅伝』などによると、当時の広田家はひどく貧しかったというが、親族によるとそれほど貧しくはなかったという。また徳平は条約改正に反対し、大隈重信に爆弾を投げつけて重傷を負わせた来島恒喜のために立派な墓碑を寄贈した。来島は玄洋社の社員であり、広田家と玄洋社の間につながりがあったことを示している[1]
学生時代

福岡市立大名小学校、高等小学校卒業後、予科を経て福岡県立尋常中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に入学した。同窓生には同期で外交官となった平田知夫がいる。広田は幼少期から柔道書道を得意としており、玄洋社の所有する柔道場で稽古をしていた。後に柔道場が新築された時の落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員となった[注釈 1]

当初は家計への負担をかけないために陸軍士官学校への進学を志望していたが、修猷館時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を志した[2]。修猷館卒業直前、帰依している禅宗僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われ「弘毅」と改名した。「弘毅」は『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅〈「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力〉ならざるべからず)から採った。改名は正当な理由が無いと難しいが、僧籍に入る場合は改名事由となるため、1年間寺に入ったということにしてもらった。

1898年(明治31年)修猷館卒業後[3]、平田とともに上京し、1901年(明治34年)第一高等学校英法科[4]を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に学んだ[5]。学費は玄洋社の平岡浩太郎が提供している[6]。また頭山満の紹介で副島種臣山座円次郎内田良平杉山茂丸の知遇を得た[7]。内田の紹介で講道館に入り、また山座には特に気に入られた。山座は広田らに外交関連の小冊子の発行を依頼し、1903年(明治36年)には満洲朝鮮の視察を命じている。日露戦争時には捕虜収容所で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。大学卒業後の1905年(明治38年)に外交官及領事官試験を受けるが、英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備えた。帝大同期の佐分利貞男は首尾よく合格している。赴任直前に玄洋社幹部・月成功太郎の次女で、広田らの下宿生活の手伝いをしていた静子と結婚した。静子との結婚前には元外相・加藤高明の紹介で三菱財閥の令嬢との縁談が持ち上がったが、これを断っている[8]。また、高橋是清が自分の娘との縁談を持ち掛けたが、これも断った[9]


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