広瀬香美
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広瀬 香美
生誕 (1966-04-12)
1966年4月12日(58歳)
出身地 日本 福岡県筑紫郡筑紫野町(現在の筑紫野市[1]
ジャンルJ-POP[2]
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シンガーソングライター

作詞家

作曲家

編曲家

音楽プロデューサー

ボイストレーナー

担当楽器

ボーカル

ピアノ

活動期間1992年 -
レーベルビクターエンタテインメント
配偶者大沢たかお(1999年 - 2006年)
一般男性(2008年 - )
事務所

ビクターミュージックアーツ(1992年 - 1996年)

オフィスサーティー(1996年 - 2018年)

Muse Endeavor inc.(2018年 - )

共同作業者田村充義
公式サイトhirose-kohmi.com

広瀬 香美(ひろせ こうみ、1966年4月12日[3] - )は、日本シンガーソングライター作詞家作曲家編曲家音楽プロデューサーボイストレーナー福岡県筑紫野市出身[4][1]。血液型O型[5]。Muse Endeavor inc.所属で[6]JVCケンウッド・ビクターエンタテインメントと契約。
概要

日本の国立音楽大学に通いながら、ロサンゼルスにて、マイケル・ジャクソンダイアナ・ロスホイットニー・ヒューストンのヴォイス・トレーナーであるセス・リッグスに師事し、大学卒業後もロサンゼルスでトレーニングしながら作曲家を目指した。

米国滞在中に制作した自作のデモ音源がレコード会社の耳に留まり、各レコード会社争奪のなか、ビクター音楽産業(現・JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)より1992年にデビューした。1枚目のシングル「愛があれば大丈夫」を発表後、「ロマンスの神様」(175万枚)、ベストアルバム『広瀬香美 THE BEST "Love Winters"』(240万枚)などが次々と大ヒットを記録する。

2002年、初の全国ツアーにて日本武道館公演を成功させた。

広い音域をカバーする透明感のある声質と、ボーカル曲らしくない複雑なメロディーのボーカル曲が特徴。

冬の楽曲でブレークしたことから、「冬の女王」という異名を持つ。[7]
来歴
生い立ち

和歌山県東牟婁郡那智勝浦町で生まれる[8][9]。6歳まで大阪府門真市で育った[10]。6歳から福岡県育ち[10]。父は建設関係の職業であった。

親の方針で3歳の頃からクラシック音楽の英才教育を受け、6歳の頃には作曲も始めていた[9]。「手に職を付けてもらいたい」という母の意向で、4歳からピアノ、そして5歳から和声学などクラシック音楽作曲法を習い始めた。練習をしなければ夕食抜きになるなど、学習は非常に過酷であった[11]。第1号作品を完成させたのは6歳で、タイトルは「パパとママ」である(この曲は2001年から2002年に行われた初めてのコンサートツアーで弾き語りにより披露された)。

初めて買ったレコードバッハの『マタイ受難曲[12]。「この作品には作曲法が詰まっていて、作曲のルールを身につけるための勉強になるから」という先生からの教えで、夕食中などにも聴き続けていた。
学生時代

小・中学生の頃が自身の作曲家人生のピークだったと本人が語っている[13]。日夜、夢の中でもひたすらメロディを考え、頭の中に浮かべ続けていたという。新しいメロディが浮ぶと、その場ですぐ紙に五線譜を書いてメモを取っていた[14]。後年に広瀬が発表した楽曲の中には、こうして子供時代に作ったメロディを使ったものも多い。元々人が歌うのではなく、ピアノやヴァイオリンなどの器楽曲として書いたものだったことは、メロディの起伏が激しいという特徴につながっている。

中学、高校生時代にはよく通学中に作曲していたという。「ロマンスの神様」のサビ以外の部分は西鉄井尻駅前バス停で、「愛があれば大丈夫」のサビは井尻六ツ角交差点の歩道橋の上で作られた[15][14]。東京の音大を目指し、地元福岡での勉強に加えて2週間に1度は飛行機で東京にレッスンに通っていた[9]

福岡女学院中学校・高等学校(音楽科)卒業後、国立音楽大学音楽学部作曲学科に進学する[11]。しかし学科内での成績は悪く、講師から「何になりたい?」と尋ねられて「作曲家」と答えるも「無理」と言われた[11]
ヴォイストレーニングのため渡米

幼少期から養った音楽理論と自身の夢を否定された広瀬は、気分転換を兼ねて高校時代の友人を訪ねるためロサンゼルス(LA)へと旅立った。そこで、マイケル・ジャクソンマドンナのライブを観て感激し、ポップ・ミュージックに目覚める。「自分が書き溜めてきたクラシックの楽曲を編曲して、マイケル・ジャクソンが歌ったら売れるのでは」と考え、「マイケルに楽曲提供したい」という夢が生まれた[16]。そして夢に少しでも近づくためポップ・ミュージックの勉強を開始、広瀬にとって大きな転機となった。

渡米後、友人のつてで、目標としていたマイケル・ジャクソンのヴォイストレーナーであるセス・リッグスのオーディションを受ける。そこでマイケルに少しでも近づくため、作曲やプロデュースの勉強をさせてくれないかと直訴した。結果、歌ものの曲を書きたいのならと、ボーカルトレーニングも受けておくことを勧められ、東洋人で初めての合格者となり約3年間師事する。

トレーニング修了後、LA在住の日本人ギタリスト平野T.J.ヨーイチと出会う。平野は広瀬の才能を高く評価し、日本デビューに向けてデモテープを制作した(平野は後に、広瀬の所属事務所「オフィスサーティー」の代表取締役となるが、2018年に広瀬の移籍問題があり裁判で争うことになる)。
シンガーソングライターとしてデビュー

そして帰国後、多数のレコード会社にデモテープを送付、そのデモテープがビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)のプロデューサー田村充義の目に止まり、同社から作曲家に留まらず、シンガーソングライターとしてのデビューが決定した。

1992年7月、アルバム『Bingo!』でデビュー、同年12月には1枚目のシングル「愛があれば大丈夫」をリリースした。2枚目のシングルも出したものの、「二人のBirthday」はオリコンチャート圏外とふるわず、以降の新曲リリースについて所属事務所とレコード会社は乗り気ではなかった。そこで、スキー用品店「アルペン」が費用を折半する形で制作に着手、広瀬を再度売り出すことにした。

1993年に、アルペンCMソングになった3枚目のシングル「ロマンスの神様」は、オリコンチャートで約175万枚の大ヒットとなりブレイクした。上記のような経緯から、以降はアルペンが広瀬のCMタイアップの9割を占めるようになり、それ以降タイアップ効果も伴い、「幸せをつかみたい」「ゲレンデがとけるほど恋したい」「promise」など数々のヒット曲を生み出す。

冬にヒットする曲が多いことから「冬の女王」とも呼ばれるが、ヒットした曲が多いアルペンのCMソングやウインターソングなどは実は一年中温暖なロサンゼルスで書いている。また、本人はウインタースポーツも全くせず、これら冬の曲を作るのは大変だったということで、部屋中に雪の風景の写真集を広げたり、舞台が冬の映画を観たり、冷房を強めにして寒さを体感しながら曲を書いたという。夏の方が身近なロサンゼルスに住んでいれば、冬が特別な季節に感じられるとも話している[17]。ちなみに広瀬は、自身のシングル「夏だモン」や広末涼子に提供した「summer sunset」など夏の曲も相当数書いている。

教育現場においては、1999年、独自のメソッドを提唱するヴォイス・トレーニングやヴォーカル・レッスンを行う「Do Dream」を開校、自ら校長を務めていた。また母校と同系列校である福岡女学院大学で客員教授としても教鞭を執っている。
2000年代

2009年7月19日に、親交のあった勝間和代の勧めにより、Twitterのアカウントを取得する。同年11月13日には、日本人メジャーアーティストとしては初となるTwitterコンサートを開催した。Twitter上のみで観客を募集(募集定員もTwitterの文字数制限にちなんで140人)、当日は観客による会場からのTwitter実況を許可、広瀬本人のMCもTwitterでのみ行われ、歌声と時々笑いが起きる以外はほとんど沈黙状態というコンサートとなった[18]。またTwitter上でのやり取りを通じ、「ビバ☆シリーズ」と称して「ビバ☆ヒウィッヒヒー[注 1]」など5曲を作曲して自身のブログやYouTubeのビクター公式チャンネルで配信、2009年12月にはそれらを収録した『ビバ☆ベスト』がPC配信限定アルバムとして発売された。
2010年代

2010年1月20日、NHK総合スタジオパークからこんにちは』にゲスト出演し、同局で同日夜に放送された『SONGS』のロケで初めてゲレンデに行った。「冬の女王」と呼ばれているため「ゲレンデには行かないの?」と聞かれた時は「忙しいから行けない」と答えていたが、放送で「冬が苦手なんです」と告白した。2010年10月4日から、ニッポン放送他全国35局ネットで冠番組広瀬香美 ラジオdeフォロ?ミ?』がスタート、初めて全国ネットのレギュラーラジオ番組を持った(翌年春改編で終了)。2010年11月16日に、東京工科大学で広瀬本人と同大学学生が、Twitterを使用し相互につぶやきながらの講義が行われた[21]

また、2015年には「広瀬香美合唱団」を設立した[22]。同合唱団のテーマ曲は「最高のエンディングを共に」である(2016年発売のアルバム『25th プレイリスト』に収録)。

レギュラー番組としては、2012年10月から12月までNHK Eテレにて『趣味Do楽 「誰でも歌はうまくなる!?広瀬香美のボーカル・レッスン?」』を担当。またその話術が買われ、2013年4月(春改編)よりニッポン放送にて『広瀬香美 ミュージックwith』を15年春改編まで、同年12月よりNHK Eテレにて『趣味Do楽「めざせカラオケ王キング! ?広瀬香美のボーカル・レッスン PART2?」』を担当。


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