広瀬哲朗
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広瀬 哲朗基本情報
国籍 日本
出身地静岡県静岡市清水区 (旧:蒲原町)
生年月日 (1961-01-23) 1961年1月23日(63歳)
身長
体重176 cm
79 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手遊撃手二塁手
プロ入り1985年 日本ハムファイターズドラフト1位
初出場1986年4月9日
最終出場1997年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


静岡県立富士宮北高等学校

駒澤大学

本田技研

日本ハムファイターズ (1986 - 1998)

監督・コーチ歴


野球女子日本代表 (2001 - 2005)

熊本南リトルシニア

サウザンリーフ市原

CBC北海道

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

広瀬 哲朗
YouTube
チャンネル

広瀬哲朗??1年1組てっちゃん先生

活動期間2022年5月16日 -
ジャンルエンターテイメント
登録者数1130人
総再生回数16.7万回
YouTube Creator Awards



チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年11月26日時点。
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広瀬 哲朗(ひろせ てつろう、1961年1月23日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手内野手)。野球解説者タレント野球日本女子代表の監督・顧問、野球指導者も務める。
経歴
プロ入りまで

静岡県静岡市清水区にある静岡市立蒲原中学校(旧:静岡県庵原郡蒲原町立蒲原中学校)、静岡県立富士宮北高等学校を経て駒澤大学に進学。歌手の久保田利伸は中学時代ならびに駒澤大学の後輩になる。同野球部では東都大学野球リーグ1980年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会では決勝で明治大学に敗れ準優勝。1982年日米大学野球選手権大会日本代表にも選ばれる。リーグ通算99試合出場、352打数100安打、打率.284、2本塁打、32打点。ベストナイン(遊撃手)4回。大学同期に近藤満、1学年下にプロ入り後も二遊間を組んだ白井一幸がいる。

1982年のプロ野球ドラフト会議ヤクルトスワローズから4位で指名されたが、同時に2位で駒澤に入学予定であった新谷博が指名されたため監督の意向で拒否[1]本田技研工業に就職し同野球部で活動。1983年から3年連続で都市対抗野球に出場。1985年社会人野球日本選手権大会では伊東昭光の好投もあって初優勝、同大会の優秀選手賞を獲得する。同年の第7回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表となり、社会人ベストナイン(遊撃手)にも選出されている。なお駒大から本田技研に移る段階では卒業単位を満たしていなかったが、本田技研時代に単位を取得し、卒業している。
日本ハムファイターズ時代

1985年のプロ野球ドラフト会議日本ハムファイターズに1位指名[注 1]され入団した。入団当初から守備力があり、1986年ジュニアオールスターゲームMVPを獲得したが、打撃が弱く、一軍への定着は遅かった。1989年近藤貞雄が監督に就任すると重宝され、バント要員、守備固め、代走での出場を主として頻繁に起用されるようになった。

1993年大沢啓二監督に闘志を買われ主将に就任[2]、正遊撃手の田中幸雄を外野に追いやり、32歳にして遊撃手のレギュラーに定着した。1993年と1994年には2年連続でベストナインゴールデングラブ賞(遊撃手部門)を受賞した。1995年は、春季キャンプで故障離脱し一軍出場は4月後半となり、その間に田中の遊撃手再コンバートに伴い三塁手として出場。地元で開催された同年のパ・リーグ東西対抗でマウンドに上がったイチローと対戦し、投手ゴロに打ち取られた。

1997年は、落合博満の加入により一塁手の片岡篤史が三塁へ再コンバートとなったため、玉突き的にレギュラーポジションから弾き出され広瀬の出番は大きく減る。契約更改の会見で前年複数年契約を結んでおくべきだったと語った。

1998年は故障のためシーズン序盤で戦線離脱。復帰後は出番が一軍は疎か二軍でも殆ど無く、チームは一時快進撃を見せながらも終盤失速して2位止まり。故障により「納得がいくプレーができなくなった」、「最後は一軍で終わらせたかった」と語り、一度も優勝を味わうことなく現役を引退した。同期生で仲が良かった田中からは「どうにか故障を完治させてもう一年やったら」と提案もされたという。この年の後半、前半圧倒的に勝っていたチームが大失速し苦しんでいる際、チームを奮起させようと一軍監督の上田利治に一軍昇格を申し出たが、代わりに落とす選手がいないと断られ、反論で落合博満の獲得の件や1996年の大失速した原因を指摘し、その場にいたヘッドコーチの住友平も交えての大喧嘩になったことを後年に語っている[3]


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