中華人民共和国 四川省 広漢市
三星堆博物館三星堆博物館
徳陽市中の広漢市の位置徳陽市中の広漢市の位置
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度58分34秒 東経104度16分57秒 / 北緯30.97611度 東経104.28250度 / 30.97611; 104.28250
広漢市(こうかん-し)は、中華人民共和国四川省徳陽市南西部に位置する県級市。四川盆地の中部、成都平原の只中に位置する。市政府は?城街道に所在する。 広漢市は全域が、秦代に建設された水利施設都江堰の灌漑の恩恵を受けている。市内は平野が92.3%、低い丘陵が7.7%を占める。 広漢市は、徳陽市の南西部に位置し成都市と境界を接する。隣接する行政区は、成都市では青白江区・金堂県・彭州市、徳陽市では什?市、旌陽区、中江県。 市内からは長江文明の重要な遺跡の三星堆遺跡が発見されている。殷代には蜀国の都邑があったとみられる。三星堆遺跡は現在、中国の「全国重点文物保護単位」にも指定されている。 秦代には?県(らくけん)が置かれた。県名は県境に流れる?水という川の名から取られており、その城郭都市の跡は現在の北外郷にある。前漢の高祖6年(紀元前201年)には広漢郡が置かれ13県を管轄した。武帝の元封5年(紀元前106年)の時期に全国に13州刺史が設置されると、広漢は四川を管轄する益州に含まれた。王莽が9年に新を建てると益州は「庸部」に改められ、?県に部牧(長官)が置かれたが、後漢の光武帝は建武12年(38年)に益州と広漢郡が復活し、?県は広漢郡の属県となった。 三国時代には広漢一帯や?城は、たびたび成都・益州攻略戦の戦場となった。劉璋が支配する益州に後に蜀漢を建てる劉備らが攻めよせると?城が包囲戦の舞台となっている。263年に魏が蜀漢を滅ぼすと益州から梁州が分けられ、広漢郡は梁州に属し?県が広漢郡の郡治となる。 唐高祖の時代(619年)には?県が分割され什?県(じゅうほうけん)が置かれた。元世祖の中統元年(1260年)には漢州が置かれ什?・徳陽・綿竹の3県を管轄したが、?県は廃止され漢州による直轄地となった。元末期の1362年、明玉珍が反乱を起こし蜀で皇帝を称して大夏を建てると?県が復活しているが、明太祖洪武帝は1371年に大夏を滅ぼすと?県は再度漢州の直轄地に戻った。 清の初期、明の地方制度が踏襲されたが、康熙26年(1687年)には漢州は県と同格の散州と呼ばれるものへ降格され、成都府に属し、他の県を管轄することはなかった。 中華民国2年の1913年、漢州は川西道に属する県に改められ、名も旧名にちなみ広漢県とされた。 1960年には一旦什?県と合併して新たな広漢県となったが、1963年には再度分割された。1983年には広漢県は成都市の一部となったが、同年8月に徳陽市ができるとその一部へとなった。1988年2月、広漢市が設立されている。 2002年の調査では、市のGDPは55.4億元、市民1人当たりGDPは9,481元。農村部の一人当たり平均年収は3,062元、市街地の一人当たり収入は7,047元。産業の構成は、第一次産業18.2%・第二次産業43.7%・第三次産業38.1%。四川省の市や県でも経済総合実力は上位10位に入るとされる。三星堆遺跡の観光のほか、製薬業・建材業などが盛ん。
地理
歴史
行政区画「中華人民共和国の行政区分」を参照
街道:?城街道、金雁街道、漢州街道
鎮:三水鎮、連山鎮、高坪鎮、向陽鎮、小漢鎮、金輪鎮、金魚鎮、南豊鎮、三星堆鎮
経済
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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