広済寺_(尼崎市)
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広済寺
山門
所在地兵庫県尼崎市久々知一丁目3-27
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度44分48.7秒 東経135度25分52.7秒 / 北緯34.746861度 東経135.431306度 / 34.746861; 135.431306座標: 北緯34度44分48.7秒 東経135度25分52.7秒 / 北緯34.746861度 東経135.431306度 / 34.746861; 135.431306
山号久々知山
宗派日蓮宗
本尊一塔両尊四師
創建年957年天徳元年)
開基多田満仲勧請)、日昌(再興)
正式名久々知山広済寺
別称近松寺
文化財近松門左衛門墓(国の史跡)
公式サイト近松門左衛門と広済寺
法人番号8140005011327
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本堂本堂・扁額近松門左衛門墓(国の史跡)

広済寺(こうさいじ)は、兵庫県尼崎市にある日蓮宗寺院。山号は久々知山。かつては久々知妙見の神宮寺であり、近松門左衛門ゆかりの寺院としても知られている[1]。旧本山は京都本満寺(六条門流)、莚師法縁(隆源会)。
歴史
創建と再興

創建には諸説あるが、『小田村勢』では『摂津名所図会』を引用して、957年天徳元年)に多田満仲勧請禅宗の寺院として創建された後、1714年正徳4年)に日昌[注 1]が再興し日蓮宗に改宗した[1]と記されている。

再興には、尼崎城主・松平家の協力を得て、満仲勧請の妙見宮を祀った[2]
日昌と近松

日昌は大阪にあった船問屋・尼崎屋吉右衛門の二男で、出家の後偶然妙見菩薩のお告げを受け、満仲ゆかりの同地を精舎建立の地に決めたという。この時建立に尽力したのが近松門左衛門であった[2]

日蓮宗の信者であった近松は、日昌の生家「尼崎屋」の支援者だったこともあり、建立本願人として貢献している。近松作品の出版元であった大阪の正本屋九右衛門や歌舞伎役者・三代目嵐三右衛門ほか役者や商人がこぞって寄進し、妙見宮本殿や本堂などが建立された[2]

近松は自ら寄進したこの寺をこよなく愛し、寺では本堂裏に彼の仕事部屋を造った。のちに近松屋敷[注 2]と呼ばれたこの部屋に晩年の約10年、10の道程を厭わず訪れ、『大経師昔暦』『女殺油地獄』などの名作を次々に生み出した[2]
近松以後

近松亡き後も、この部屋では彼をしのび、大阪の役者たちの手で浄瑠璃が上演された。また、参詣に訪れる役者が絶え間なかったという[2]

だが、明治廃仏毀釈により、貧窮から境内は再興時の4分の1に減り、本尊の日蓮像も売却されるなど急速に疲弊していった。本堂が傾き、幽霊屋敷と噂されるほどの荒廃ぶりに、入山の下見に訪れるも驚いて逃げ帰る僧がいたとされる[2]

その後、本堂は庫裏や書院と共に1987年昭和62年)に新築された[2]1995年平成7年)の阪神・淡路大震災では本堂にヒビが入り、山門や妙見堂が傾き、近松の墓碑が倒壊するなどの被害を受けたものの、1999年(平成11年)6月20日の妙見堂落慶法要をもって境内の復興を遂げている[3]

「近松の里(道路修景整備)」で、平成6年度手づくり郷土賞(ふるさとを紹介する道部門)受賞[1]。
境内妙見堂(開山堂)妙福稲荷

「妙見宮」扁額等の石材が本堂西側の横門脇に置かれている。なお前述の震災では妙見宮の鳥居も崩落しており、跡地には瓦葺きの横門が再建された[3]。横門前には「妙見堂大鳥居」や近松の墓碑等について刻銘された石碑が建っている。
本堂
山門を入って正面南向きに建つ。本尊一塔両尊四師日蓮大曼荼羅本尊を木造化したもの。本堂裏には明治末まで、前述の「近松部屋」と呼ばれた建物があった[4]
妙見堂(開山堂)
本堂南東側に建つ。元来は日昌を祀る開山堂であったが、廃仏毀釈により旧妙見宮にあった北辰妙見大菩薩牛頭天王諏訪大明神の神体が移され、日昌尊像とともに安置されている。
妙福稲荷
山門東側、妙見堂に隣接する妙福堂と朱塗りの鳥居。
近松門左衛門墓
国の史跡1966年(昭和41年)9月2日指定)[注 3][5]。本堂東側墓地に建つ。高さ約48cm、緑泥片岩の自然石墓碑。表には、近松と妻の戒名が並んで刻まれている[4]

「妙見宮」扁額

横門前に建つ石碑

周辺須佐男神社・鳥居近松記念館

境内西隣のかつて妙見宮があった場所には、須佐男命を祀る須佐男神社が鎮座している[6]。また東隣には1975年昭和50年)11月22日、財団法人近松記念館が開設し、近松ゆかりの資料約100点が展示されている。さらにその周辺には近松公園が2haに渡り整備されている[1][7]

須佐男神社

近松公園

近松記念館


須佐男神社・社殿

近松公園

近松祭

近松の命日・11月22日前後の休日に開催されている[注 4]。同祭では本堂にて追善法要、近松墓前にて読経が行われ、浄瑠璃人形による焼香等がなされるほか、境内では野点が行われる。また隣接する近松記念館では、人形浄瑠璃や落語等の奉納芸能がホールにて開催されている[8]
交通アクセス
鉄道

JR宝塚線 塚口駅下車 南東へ徒歩約15分


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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