広津 柳浪
(ひろつ りゅうろう)
誕生1861年7月15日
日本・肥前国長崎材木町
死没 (1928-10-15) 1928年10月15日(67歳没)
日本・東京府東京市大森区
墓地谷中霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東大医学部予備門中退
活動期間1887年 - 1928年
ジャンル小説
文学活動悲惨小説(深刻小説)
代表作『変目伝』(1895年)
『黒蜥蜴』(1895年)
『今戸心中』(1896年)
デビュー作『女子参政蜃中楼』(1887年)
子供広津和郎
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広津 柳浪(ひろつ りゅうろう、1861年7月15日(文久元年6月8日) - 1928年(昭和3年)10月15日)は、日本の小説家。肥前国生まれ、本名直人、別号に蒼々園。硯友社同人となり、「残菊」で認められる。「変目伝(へめでん)」「今戸心中」「黒蜥蜴」などの低階級社会の暗部を描いた作品で、「悲惨小説」、「深刻小説」と称された。小説家の広津和郎は子。 肥前国長崎材木町に、「富津南嶺」と名乗って開業していた久留米藩士・医師広津俊蔵(のち弘信に改名、外交官となる)、りう(柳子)の次男として生れた。幼名は金次郎。少年時より漢籍を学び、軍記物、読本などに熱中した。 9歳の時に、狼藉を犯して父から切腹を命じられたが、伯母サワが嫁いでいた肥前国田代在酒井村(現・佐賀県鳥栖市)の磯野に取りなされて磯野家に預けられ、姫方村の塾で漢学などを学んだ。2年後久留米を経て長崎に帰り、1873年(明治6年)に長崎市向明学校に入学。翌年一家が東京麹町に移ったため、番町小学校に入り、好成績で卒業。外国語学校でドイツ語を学び、東大医学部予備門に入った。だが1878年(明治11年)、肺尖カタルを病み、そのまま退学する。この年の春、父の友人五代友厚にさそわれて大阪へ行き、見習いとして五代家に居候することになった。結果、農商務省の官吏となったが、それよりも『南総里見八犬伝』『水滸伝』などを読み、文学へ興味を示し、役人になる気が無く免職になる。1883年に父母が亡くなり、没落、放浪する。 1887年(明治20年)、友人の画家・山内愚仙
目次
1 生涯
2 作品
3 家族・親族
4 注
5 参考文献
6 外部リンク
生涯
1898年に寿美子死去、同年永井荷風入門。1902年、高木武雄の娘潔子と再婚。1904年頃に若手を集めた同人誌「にひしお」を始め、自身も日露戦争で兵士を送る民衆を描いた「昇降場」を執筆。1908年長編「心の火」を『二六新報』に連載した後、創作活動は低調になり、1911年に創作活動は停止した。
1913年に家賃を滞納して霞町の借家から追い立てられ、麻布に移るが、この頃和郎の訳した『女の一生』が売れて、生活苦からは救われる。翌年結核で名古屋の兄のところで療養することになり、和郎に生活のために『毎夕新聞』への就職を世話する。1915年に和郎の紹介で、実業之日本社から作品集「柳浪傑作集」を出して生活費に充て、知多半島の師崎の病院に移る。翌年和郎が片瀬に移ると、夫妻でそこに同居。1928年、数年来の肺病の上に心臓麻痺のため大森区馬込の自宅で死去した。戒名は蒼々院釈績文柳浪居士[2]。 「河内屋」について雑誌『めざまし草』の「雲中語」欄で、幸田露伴は「底光りする」文章に「我が敬服するところ」と評し、森田思軒は「雲中語有て以来はじめて観る所の佳作」と激賞した。これらいわゆる悲惨小説は、その後の自然主義小説に影響を与え、また実在社会への着眼は社会小説への機運に繋がった。
作品
著作リスト
女子参政蜃中楼 大原武雄 1889(明治文学全集)