広河隆一
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出典検索?: "広河隆一" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2011年3月)

広河 隆一
2013年撮影
生誕 (1943-09-05) 1943年9月5日(80歳)
中華民国 天津市
国籍 日本
別名廣河隆一
教育早稲田大学教育学部
職業フォトジャーナリスト戦場カメラマン政治活動家
活動期間1967 to present
配偶者ルティ・ジョスコビッツ
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広河 隆一(ひろかわ りゅういち、1943年9月5日 - )は、日本のフォトジャーナリスト戦場カメラマン市民活動家。フォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPANの元編集長、同誌発行の株式会社デイズジャパンの前代表取締役および前取締役。有限会社広河隆一事務所代表[1]。日本中東学会、日本写真家協会、日本写真協会、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)、各会員[2]。チェルノブイリ子ども基金・元代表[2][3]。認定NPO法人沖縄・球美の里元名誉理事長[4]
経歴

中華民国天津市で出生、2歳の時に引き揚げ[5]、小学校入学以前から大阪府羽曳野市恵我之荘に居住した[6]東京都世田谷区在住[7]

1956年旧:高鷲町立小学校(現・羽曳野市立高鷲小学校)卒業、1959年羽曳野市立高鷲中学校卒業、1962年大阪府立生野高等学校卒業[6]、1963年早稲田大学教育学部に入学し[8][9]、1967年早稲田大学教育学部卒業。なお、広河は大学在学中に和敬塾の南寮と称する男子寮に入寮[10]、入学当初は早大山の会で活動を行っていたが、2年生の時に「カメラルポルタージュ研究会」と称するドキュメンタリークラブを立ち上げた[11]。また、広河はブント系の学生運動を行っていた[12]

映画会社から就職の内定を受けていたにもかかわらず、これを辞退。卒業後の1967年にイスラエルに渡航、農業ボランティアのかたわらヘブライ語の学習に精を出す[11]

渡航当初、コミューン的な生産、生活形態を進める共産主義的なキブツに対し憧れを抱いていた。イスラエルへの渡航から2週間が経過した1967年6月、第三次中東戦争が勃発。イスラエルが勝利を収める。滞在していたキブツ・ダリヤにおいて「ダーリヤト・アッ=ラウハー(????? ?????????)」又は「ダーリヤト・アッ=ラウハーア(????? ??????????)」というパレスチナ人の村落の廃墟を発見したことなどにより、イスラエルによるパレスチナ人に対する過酷な人権侵害を知るようになり、親パレスチナ的な態度をとるようになった[13]。イスラエルにおいては「マツペン」という反シオニスト的な政治団体で活動を行っていた。エルサレムで反シオニズム写真展を開催した後、1970年、帰国。以後、中東諸国を中心に取材活動を行う。

1982年、レバノンの西ベイルートにおけるファランジストというマロン派キリスト教徒主体のレバノン右派民兵によるパレスチナ難民虐殺サブラー・シャーティーラーの虐殺が起きた際には、居合わせたベイルートで事件直後の現場を取材している。当時の状況を自著の中でこう回想している。

「イスラエルがベイルートを完全に制圧したと発表したのは、82年9月16日午後だったと思う。翌17日、私はイスラエル赤三日月社で働いていたドイツ人医師の脱出を手伝った。その人を私の助手ということにして、一緒にベイルートを出たのである。包囲網はイスラエル軍とレバノンの右派キリスト教民兵によって、十重二十重(とえはたえ)になっており、何十という検問所が設けられていた。最後の検問所で追い返されようとしたとき、私は長い間使っていなかったヘブライ語で交渉し、通過に成功した。医師をベカー高原の病院に降ろしたあと、すぐベイルートに戻った。その日がイスラエルの新年で、そのためイスラエル軍のすべての検問所が閉鎖されることになっていたからである。

 その翌日、私はパレスチナ・キャンプに入った。早朝から気持ちが重かった。ベッドに体がくっついたようになっていた。イスラエル軍がベイルートに侵攻してから、すぐにパレスチナ・キャンプは封鎖されたことを私は知っていた。ジャーナリストも中には入れなかった。何がキャンプで起こっているのか、知る方法はなかった。いやな予感がした。パレスチナ人狩りによって、市街地から連れ去られたパレスチナ人の消息もわからなかった。

 北のサブラ・キャンプの入り口は、イスラエル軍の戦車によって封鎖されていた。入れろと叫んで、プレス・カードを見せたが、戦車の上のイスラエル兵は銃を構えて、手で私に立ち去れという仕草をした。そのとき銃声が連続して聞こえていたが、交戦の時の音ではなく、一方からの音だけだったことが、不安を増した。

 真っ黒に焼けただれた松の林の横を通って、シャティーラ・キャンプの南に出た。人影はほとんどなく、砲撃の直後らしく黒い煙が上がっていた。

 キャンプに足を踏み入れた。しんとしていた。余りに不気味で、出ようとすると入り口のところで一人の男が近づいてきて、首を切断するまねをして、中で殺戮が起こっていると言った。彼は足早に消えた。」

(広河隆一「パレスチナ/瓦礫の中のこどもたち」(徳間文庫・2001年)155?156ページ)

この悲惨な事件を含め、第一次レバノン戦争に関する取材を行い、よみうり写真大賞を受賞[14]。翌83年、同写真でIOJ国際報道写真展大賞・金賞受賞[5]

イスラエル、シオニストを批判する立場で、パレスチナ問題を取材し続けている。また、チェルノブイリ事故以来は25年以上に渡って取材し、原発に反対する活動を行っている。講談社の「DAYS JAPAN」には、イスラエルのビジネスマン、アイゼンベルに関する記事や、ダイヤモンドシンジケートの取材、チェルノブイリの現状、731部隊などに関する記事を掲載。また日本テレビNHKなどでチェルノブイリや中東に関する報道番組を多数制作、発表する。また報道に徹するだけでなく各地で救援活動を行っている。「チェルノブイリ子ども基金」代表(設立時)、パレスチナの子どもの里親運動顧問(設立時は代表を務めた)、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)世話人代表等を歴任。全国各地で講演を行っている。

福島第一原発事故の後は、主に日本の原発放射能に関する諸問題を取材するかたわら、福島の子どもが放射能に汚染にされているとして救援活動を行い、福島の子ども保養プロジェクト「NPO法人 沖縄・球美の里」名誉理事長に就任[15]


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